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アムルタートのよもやま-7

かように、古来、
広く「人口に膾炙している」とも言えそうな「信田妻」のエピソードが、
能楽に入って来てない(ように見える)ことが、
個人的には、本当に長年の疑問でして。

能楽では何故、信田妻が作品化されなかったか?
方々で尋ね歩いたところ、
・1成立時期の違い
・2悲劇じゃないから(エピソードの問題)
・3楽器(節)の違い
という3つの意見(観点)が、
これまで友人から寄せられております。

この3点の指摘。
どれも私は納得しておりませず。
ここで、検証してみたいと思います。

1成立時期の差。
能楽VS歌舞伎。
あるいは浄瑠璃や、古浄瑠璃まで遡ったにしても、
能楽の大まかな成立時期は室町。
歌舞伎や浄瑠璃は江戸期、遡っても戦国。
大枠の成立時期が違うので、
好まれるエピソードが異なるのでは?という指摘です。

加えて、
能楽VS歌舞伎や浄瑠璃では、普及階層の違いもあります。

能楽には現在、
観世、宝生、金春、金剛、喜多の5流派が存在します。
芸能としての成立時期が問題なら、
喜多流成立は江戸期なんですから、
喜多流が演目として、信田妻的なものを持ってても良いのでは?と、
思うんですよね。

廃絶曲として喜多にあるとか。
あるいは黒川能などの地域伝承の能楽に、
信田妻やその変形バージョンの演目が、
伝承されているというようなことがあれば、納得できるんですが。。。

江戸時代(1660年代初頭)に刊行された浅井了意の「浮世物語」には、信
田狐のパロディ的な話が収録されています。
これがパロディとして成立する程度には、
江戸期には、広く人口に膾炙していた話なんだろうなと、
推測するわけですが。

喜多流公式HPによると、
喜多流創設者七太夫長能は1586生-1653没。
浮世物語刊行1661OR1665。
喜多や喜多が分かれた金剛、
その他、地域の能に演目として継承、
あるいは廃絶曲で残っているのであれば納得しますが。。。。

一般的な成立時期の差、
つまり
・能楽は室町
・浄瑠璃や歌舞伎は遡っても戦国や江戸
・成立時期の違いに根拠を求めるのも、キツイかなと。

***
2悲劇じゃないから。
信田妻では、
葛葉さんがさらさらと和歌を一首襖に書き、信田の森に消え、
保名さんが奥さん恋しさに錯乱
(人形浄瑠璃だと保名物狂いの段とか言います)。
葛葉さんを探しに、信田の森に向かいます。
果たして再会出来たのか?出来なかったのか?

「悲劇じゃないから」というのは、
エピソード性の違いを指摘した意見かと思います。
「子別れ」というモチーフで考えると、
謡曲には、
「隅田川」や「桜川」などがあるわけです。
隅田川は死んだ子供の亡霊と再会しますが、
桜川だと生きてる子供と再会します。

謡曲「隅田川」は「母にてましますか」と、
母子が<再会>し。
「桜川」では 「桜子と、桜子と」と謡うわけです。

この手の「子別れ」モチーフで、
信田妻も十分、能楽になるじゃない?と私は思うんですよね。

謡曲「隅田川」のイメージが強すぎて(母と子が生きて再会出来ない)、「悲劇じゃないから能楽の題材にならない」という意見に、
繋がるんだろうなとは思うんですが。
謡曲「桜川」は生きて再会しており。

それを考えると
「題材の悲劇性の有無により、
信田妻は能楽に入って来なかった」というのは、論として納得いかず。

***
3楽の違い。
いやいや。これなんて歌舞伎の文言を能楽に持って来て、
背景の楽器変えれば良いだけで。
これはまず理由から排除できるでしょうと、
私は思いますですよ、はい。

***
そんなわけで
「信田妻(及び信田妻を連想させるような類似話)が、
なぜ能楽に取り入れられなかったのか?
(説経節、浄瑠璃、歌舞伎にはあるのに)」
というのが長年の疑問なのです。

安倍晴明がフィクションで取り上げられると、
ほぼ必ずと言っても良いほど、
「信田妻」のエピソードが盛り込まれているように思いますが。

その度に、思うんです。

なぜ、
信田妻的な話が、謡曲に取り入れられなかったのか?
浄瑠璃、説経節、歌舞伎にはあるのに?

私の疑問に関し、
多方面から、御意見、御考察お寄せ下さい。
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