マルクス「資本論」ー労働日

第8章「労働日」後半。

そもそも労働日とはなにか。

資本家は「労働日とは毎日24時間から、それなくしては労働力が絶対に再度の用をなさなくなる僅かな休息時間を差し引いたものである」というだろう。つまり、資本家から見た労働者は生活全般を通しても労働力以外の何物でもないということ。したがって、資本の自己増殖のためのものである。

ここまででも結構ひどい。でも、そうかもとも思う。この後にも書いてあったけど、安息時間や自由な社交の時間があるように見えて、それは明日も元気に働くための時間にすぎない、見せかけの自由だと。そんなこと絶対ない、自分は心から自由だなんて、とてもじゃないけど思えない。フォーディズムは今も、変化をしながらも、社会に、労働者の生活様式にまで、しっかり根付いているんだと思う。

さて、資本家は限界まで労働者を使いたいと思う。でも、そうはいかない。

労働力の価値は、労働者の再生産、または労働者階級の繁殖に必要とされる諸商品を包含する。資本が自己増殖への無制限な衝動によって追及する労働日の反自然的な延長が、個々の労働者の生存期間、労働力の持続期間を短縮するならば、消耗した労働力の急速な補填が必要となり、したがって、労働力の再生産により多額の消耗補充費を要することになる。

さくっとひどいことを書いている。限界まで労働日を引き伸ばしたいけど、それで労働者が倒れちゃうと、新たな人員を補充する方が逆にお金かかるから、適度に休ませないとな~ということがさくっと書いてある。ここで資本家も標準労働日について考え始める。

読書会では、この「労働力の補充」が簡単なほど(人口が過剰なほど)労働者が適当に扱われるよねという話が出た。ペストが大流行して、人口(というか労働者)が減少したときに労働法が整備されたことからもわかる。少ない労働者を守っていかないと!という資本の必死さが伝わる話。

そして、国家はこの人口減が起こらないよう女性を家に囲い込んで、子どもを産むことに専念させる方針になっていったのではないかというところにまで話は及んだ。「産めよ、増やせよ」にはどんな思惑があるのか。少子化対策は本当に必要なのか、なぜ必要なのか。考えさせられるなぁ。

あと、ヴェニスの商人がこの章のモチーフになっているのでは?という話もおもしろかった。あれは資本主義的なドタバタコメディだよねと盛り上がってたけど、私は文学に疎いので読書会みたいなとこで教えてもらわないと気づかないところ。資本家はほんとになんにもしてないってことをアントニオを通じてシェイクスピアは描いているのでは?そして、なにもしてないってことは逆に世の中から疎外されているともいえるのでは?という話になって、それもおもしろかった。



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