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マルクス「資本論」ー労働過程

マルクスの読書会に参加(途中参加なので資本論の途中から)することにしたので備忘録。

労働とは人間と自然の間に起こる一過程を指す。
彼の外にある自然に働きかけ、同時に彼自身の自然を変化させる。
労働の終わりには、自然的なものの形態的変化だけが引き起こされるのではなく、観念的に存在していた結果が表層として現れる。
(例えば、パンを作るとして、自然『例えば小麦粉』に働きかける『例えば捏ねる』と、『パンができる』など。小麦粉の形態的変化に加え、人間が頭の中で描いていた『パンを作る』という観念・イメージが実現されている。)

→ ここだけ読むと、ほーんって感じだけど、後から読むと、ここの労働の定義が効いてくるのですごい。
労働者サイドだと、出来上がったものは、自分の観念が現れた具体的なもの(パンを作ろうと思って、実際にパンが出来る)だけど、資本主義においてはそうではなくなる。(例えば分業でいうと、ある部品を組み立てているけど、それがなんの部品なのかわからないみたいな)自分で作っているものと、完成形の生産物が結びつかないことはままある。
このズレが実は本質的なものということが読み進めていくと、後でわかる。なんか伏線がおもしろいミステリみたい。

生産物は「原料」+「労働」から生まれるが、生産物となると労働は消失する。
労働者サイドから見ると、生産物が生まれるプロセスで自分の労働力が発揮されているけど、生産物を見てもそこに労働力の跡が具体的には見えない。
もちろん、人間には想像力があるので、生産物の背景に労働があることはイメージできるけど、それは具体的な労働ではなく、抽象化された労働である。(抽象的労働)

この本来、具体的なものであるはずの労働が抽象化されることによって、生産物から人間性が疎外される。

→ これはすごく心に響く。事務仕事をしていても、やっているのは自分だけど、自分がやったことが残るわけではなく(もちろん組織内部では責任という形では残るけど)、単なる生産物として扱われる。
それは実はしんどいことなんだと気づいた。
自分の具体的な労働がないことにされる、頑張って働いたのに、生産物としては労働は消失する。
だから、やってて虚しくなる仕事があるんだな、きっと。

→ ちなみに労働が生産物を作り出す行為としたら、労働に本質的に空虚さが内包されているのか、と思ったけどそうではないらしい。
交換せずに、自家消費すれば、労働はないことにならない。(ここで言う「自家」は自分だけじゃなくて、コミュニティくらいの広さで)
でも、資本主義は他のコミュニティとの交換により、消費されていくので空虚さを生み出す。
だから、労働ではなくて、資本主義が構造的に空虚さを抱えているみたい。

また、資本家は「労働手段(農業なら鍬とか)」と、「労働対象(農業なら野菜とか)」と、「労働力(作業する人)」をすべて市場で調達するため、その三者はその点で違いがなく、並列的に管理対象とされる。

→ なぜ労働者が管理されるのか。その土台となっているのがモノと同じ扱いだからだ、ということをもっと意識した方がいい。表面上はそうじゃなくても、人として扱われてない可能性があるということ。怖い。

次の回は「価値増殖過程」。タイトルからして搾取のプロセスがありありと見えるので楽しみ。

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