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マルクス「資本論」ー労働日

第8章労働日
「労働日の限界」というなんとも言えないタイトルから始まる第8章。昨今の労働時間削減の運動の論拠にもなっている重要な章。

労働日は可変量(!)ではあるものの、ある限界内においてのみ変動しうる。(当たり前だ!)
第一に肉体的限界。
第二に精神的な諸限界。
労働者は、食事・休息だけでなく、精神的・社会的欲望を満たす時間を必要とする。
しかし、資本家は自分が買った商品(労働力)の使用価値からできるだけ大きな効用を打ち出そうとする。
かくして、資本主義的生産の歴史において、労働日の標準化は、労働者の休む権利と、商品を使用する権力の間で起こる闘争として現れている。


この闘争が150年後の今もなお争われているのに驚く。ほんとにびっくりする。労働者を限界まで働かせたいけど、倒れちゃうとそれはそれで面倒だしなぁという資本家の思想がいまだに根付く社会であることにびっくりする。

あと、特に「労働時間は資本家によって買われた時間で、資本家が自分の買った労働力を消費する時間である。労働者が自分自身のために消費するならば、それは資本家のものを盗んだことになるのである」という一節が心に残った。
仕事の時間は、わたしの時間じゃなかったのか!!という新鮮な驚きがあった。
だから、自分の好きなように、自分が楽しめるように働いてるとちょっと罪悪感があるし、ちょっと爽快な気持ちになるのかなぁ。

読書会の中で、資本論からちょっと外れるけど、魔女狩りとフェミニズムの話が出たのもおもしろかった。
文化人類学とかでも、「女性は自然、男性は文化・人工」という分類がかつてはなされていたと言われてるけど、資本主義において都合の悪いもの(ジャンクフードじゃなくて自然のものを食べようとか、薬を買うんじゃなくて薬草で治そうみたいな)を女性に押しつけて、それをうまく魔女狩りと結びつけて排除しながら、新しいもの・資本主義社会において生産された商品を買うことはいいことだと世論を動かしていった。ここにフォーディズムとかも絡みながら、どんどん資本主義社会になっていった、っていう。
今当たり前に思ってることは、どこから来たんだろう?どんどん今の社会に疑問が増えていく。

あと、資本論全体において、「労働」とか「権力」みたく倫理観と結びつけやすいことを扱っていながら、倫理的な書き方がされてないねという指摘もあって、これは今後、気にしながら読んでいきたいなぁと思った。

そんなわけで、労働日はおもしろかった。後半戦もたのしみ。

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