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いつまでもフラフラして、えらいわぁ

最初に断っておくと、これは自己正当化バイアスが生んだ、ざんない文章である。従って、良識のある人間は、すべからく、このような文章に微塵みじんも惑わされることなく、ご自身の生業とするところに、いささかの影響も与えぬよう、見向きもしないのがよろしいかと思われる。

帰りましたね。

さて、では安心して始めましょう。何かを言い出すに、逃げ口上が枕など、下卑た精神と揶揄されない気もしないでもないが、仕方がない。言い訳がモチーフだもの。ようこそ。もう音楽は鳴っているのだ。ドープなビーツが。ズンチャッチャと。

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さて、とは言え、少し奥まったややこしいことを言いたくなった時はいつでも、僕は「長田オサダ」という半架空の読者に伝わる程度に噛み砕き、そいつの質問に答えるようにして、書くことにしているわけだけれど、まぁまずは、こう言ってしまおう。

中途半端であることの価値ってあるよね、と。

そうしたら、長田は言うだろう「何が?」と。

飾らずシンプルなのが彼の魅力であって、また時には、まどろっこしく感じる程、自分の想像力を使わない。出来ないのではなく、まずは、相手が言わんとしてることを自分勝手に解釈せず、言葉の意味的なレベルから、正確に捉えようと努めるタイプである。こういう聞き手になりたいものです。

しかし、こんな風に「何が?」と問われた日には、こちらも負けじと、そう簡単には明け渡すまいと、言いたいことを遠回しの雰囲気で伝えることになる。要するに、喩えで対応することになる。

そして話が長くなる。(いざ、本編開始)

***

例えばさ、半袖とか、七分袖とか、そういう「袖の長さ」みたいなものを取ってみても、大体これぐらいが妥当とか落とし所みたいな、無理なく成立する丁度いい長さってもんがある、ような気がするやん。

でもこの長さが仮に、なんというか、中途半端な服がある、とすると。そしてなぜかそればっかり着続けてる奴がおる、としようや。彼が振り返る度に漂う「コレジャナイ」感。色んな長さがあるのはわかるけど、これではない、と。大体の人がわかる。見たら何となく分かる。何なら、本人も薄々気が付いている。恐らくこれではないのだろうと。

でもやめない。

わかってるか、わかってないかと言えば、多分わかってる。そのズレ方に対する「ちょっと変わってるよね」みたいなオトナの評価を見てればわかる。浴びてりゃわかる。

でもやめない。やめられない。

こういうことってあるやんか?と僕が聞くと、

「よくわからんな」と長田は言う。

中途半端に価値があるって出だしと、今のお前の、袖の長さが変な奴が、そこにこだわって自分で気付いててもやめないみたいな話と、どう繋がるんや。

さすがやな、言うや言わんや、こう続ける。

よお、聞いてくれた、と。

よく聞け、長田。ざっくり世の中には多分、これはいいことだよね、とある一定の合意やらコンセンサスが取れてる、とされていることと、まだ評価の定まってないものがあるんちゃうか。

あ、待て待て。ポイントはそことちゃうねん。

そういう既存の価値観で捉えられていないとこに、新しい価値観だとか考え方にプライド持って、世の中に認めさせるまで「やめない!」と踏ん張ることって立派だよね、みたいな浅い話がしたいわけじゃない。全くちゃうぞボケ!と。

と僕がいえば、

「いや、そんなことは言うてへん」

と言うかしらん。人が言ってもないことを、勝手に想像で補ってモノをいうのが、悪い癖である。ちなみにこの文章の全体が既に、その構造になっている。

「ほなその話は、どういう意味なんや?」と彼は言う。

そやな。ここでいう中途半端ってのは、もっと根の深いやつやねん。だからその意思表明すらも、中途半端なんや。

本人も別にその袖丈が、現状の世の中的な評価に耐えないぽいことは、わかってるねん。ほいでも、これが僕は好きなんだと、強く主張するほどのもんでもない。ただ自分にとって自然で、言わば一張羅いっちょうらみたいなもんやから着続けてるけど、まぁ別に、袖丈ぐらいのことやし、何なら別に、これがいいとか好きかと聞かれたら、どうかな、ぐらいで、どうしてもってわけじゃない。

ただ敢えて、それをちょっと伸ばして七分丈とか、いっそはっきりノースリーブとか、そういうわかりやすい世の中的なものに無理して合わせにいくのだけは、ちょっと違うかなって意識でのみ、その中途半端にしがみついてしもてるんや。

「わかる?」

と僕は言う。長田は言うだろう。

「よくわからん」と。

何じゃお前はボケ、何がわからんのじゃハゲ。と、こういう煽り文句を入れながら、好き勝手言っても、長田は愉快そうに聞いてくれるので、それに甘えている。こういう類の会話は、謎解きみたいな遊びの要素があると思いませんか。そうでもないですか。

ああ、もう邪魔くさいから言うてしまおう。中途半端であるってのは、まぁこの場合は俺のことやねんけど。

「やろうな」

うるさい。大人しゅう聞かんかい。この中途半端であること、ってのは、自覚は伴うんやけど、実際のところ、解決したい問題があるわけではないってのが根本的なところで、身長が168.5cmであるとかと同じなんや。自分自身でもちょっと中途半端かな、と思わないでもないけど、だからどうってことはないやろ。

それと全く同じか、ちょっと違うか、まったく違うんやけど。

「どないやねん」

言い方を変えるとな、俺ははっきり仕事をしてるのか、してないのか、よくわからん時があるし、何のために生きてるのか、生きてないのか、これもまたよくわからん時がある。ただ、それが何か、致命的な問題になってるかと問われると、それは別にそれで問題ないねん。多分。

幸いにして何らかの場において、自分なりに貢献できることがあって、その分のリターンを与えられていれば、それは成立するやんか。だからこうハッキリとしたライフスタイルを掲げるわけでも、良さげに響く何かしらのタイトルとかステータスで威厳をまとおう、みたいな、誰かに対する説明コストを端折はしょりたいがために敢えて何かをする、何かになるってのも、これまたない。そこにないものを、あるって取り繕うのって大変やんか。

「ほうほう」

とすると、それは本人から何も発されない時点で、何かしらを他の人が見出すこともまた難しくなるわな。だから他の人からしたら、よぉ言うて、よくわからん、悪く言えば、何を目指してるんかイマイチはっきりしない中途半端な子、みたいなもんでしかない。

ただ、話はこっからや。こっからの逆転劇を聞かせんがために、この話をしてるんや。

「おうおう、長いな」

うそやん。今まだ曲全体からしたらイントロやで。

「もう2回ぐらいサビ歌ったかと思ってたわ」

あほボケ。そんなんやったら、ワシただのしょうもない子やないか。

「ほな、はよサビ行ってもらえるか」

よぉ聞け、長田。ちゃうやん!と。ここまでの話の中で、一番そうやな、言うてることがおかしかった人がいます。誰でしょう。

「サビ前パートはいらんな」

もうちょっと遊ばせてくれよ。まぁでもこれは話的にシンプルにワシの逆側ですわな。

さっきお前は言うたな、一体何を目指してるんか、中途半端でハッキリせーへん子、みたいにディスってくれたよな。

「言うてへんけど、まぁ出てきたな」

ちゃうやん!と。ほなあれかい。何を目指してるかを、あれですか。僕はこれを目指してますと、四方八方に説明して回る責任なんか一度でもあったんか、と。ほな逆に聞いたらぁ。お前はそれをやってるんかと。やってないよな。

じゃあ何故お前はそれをやってへんのに、自分がその説明を求めたり、あまつさえそこに評価を下したりする、言わば品定めの立場が、うっかり妥当だとか、自然に感じちゃってるんか、っちゅう話になるわな。

「落ち着け。そいつはお前の頭がこしらえた架空の存在や」

お前もやな。ほな、言うてあげましょうか。それはお前が無自覚にも、この無自覚ってのがまた肝なワケやけど、自分が一般的に認知されてるカテゴリーに収まってると思ってるからとちゃうか。

「全然止まらんやん」

一般という名の多数派の傘の下で、他者に対しては説明不要を貫きながら、それがよぉわからんやつには、その安全地帯からジャッジ出来ると、まぁ恥ずかしくも思い上がった、なんと不遜。なんという奢り。

「わかったから、虚像群に毒を吐くな」

ほな、ええわい。ワシの心が弱あて、そういう他者への説明コストみたいなもんを「聞かれて当然。答えられないのはそいつの問題」みたいな無言の圧みたいなもんを勝手に感じちゃってますって話でもいいけど、こっちはその、意思表明さえも中途半端やー、言うてるやろ。

「威張れることではないんとちゃうか」

そりゃまぁそうよ。だからまぁなるべく言語化して伝えられた方がマシじゃないかと思ってまぁグダグダ言うとるわけやが、結局このなんとも言えなさの中で、漂ってる状態ってのは、実際あるわけよ。

なんとも言えない。きっとそこには、そこにフラフラ漂っている、って事実以外に特に何も言うべきことがない、みたいなこともある。

「語りえぬものについては沈黙しなければならない、ってやつか」

おう。まぁその通りなんやと思うけど、急にそういう含蓄ある系のツッコミはやめてくれるか。心がザワつくがな。

「悪い、悪い」

とにかくやな、そういう中途半端にフラフラ漂っている状態って、あるよね、と。ほいでそのはっきりしなさの中で、無理から何かに添わせることを潔しとせず、はっきりと、スッキリとすることを保留して、敢えて何かを表明しなくてもよいのだ、という「こうじゃないといけない」っていう抑圧に対峙するところに、何か意味らしきものが見い出せるんじゃないか、と。

それこそが、中途半端の、そしてさらに大事なのが、自他ともにそれを許容したり、肯定することの先にある価値なんじゃないのかしらと。「こうでなければならない」の抑圧から解き放つ力こそが「中途半端であることを、まずは自分が、その先に周囲もが、肯定すること」の価値なんです、と。

まぁ要は、みんなキチンとしないとイケないと思いすぎてるんじゃないのかしらっていうアンチテーゼよね。

「なるほどな」

ほいでな、これが最後の決め台詞やねんけど。

「何や何や」

ほんまは誰かて、フラフラしてるもんなんちゃうか、と。

(以上)

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。