フィボナッチ戦略
さて、水曜日は「リトルまさまさのこなくそ日記」です。
このマガジンでは、イマ・ココの思索の旅をテーマに、生煮えであろうと、ひょいひょいと可憐なアイディアを書いていきます。
これを今後の定形文句にしていこう。
なお、前回はお盆休みということになっております。サボったわけではありませんので詮索なきよう。
これまで、オフロ理論やら、ごきげんの作り方やら、実践オフロ理論やら、書いてきました。思うに、次の1~2回が山場になりそうです。
忙しいアナタのため、簡単にこれまでのことをまとめると、
先行きの見えない道をゆくのなら、計画的であるよりは、もっと探索的に、自転車操業的な感じで、牛歩に次ぐ牛歩でやっていこう。そしてごきげんを保つのさ。ということになる。うん。ちょっと浅薄な感じになってるけど、そんな感じ。これで今日の内容の土台は盤石です、と。
もしご興味があれば、個別のnoteをご参照あれ!(無理はご法度!)
古今東西「シャンデリア」っぽい名詞
ある日、気がついた。これものすご沢山あると。
シャンデリア、シャングリラ、シンデレラ、サングリア、サイゼリア、カンブリア、頑張り屋、勘繰り屋、寒ブリや
最後の1つ2つぐらいは審判の判定次第ではあるものの、まあ沢山あること、あること。僕の中では、これは「シャンデリアっぽい音」引き出しに入ってる。つまり、こいつらは音が似てる名詞のグループなわけだよ、他にもあるかい?カンパネルラ、と。
もしあったら、コメントで教えて頂けると、ほくそ笑みます
同様にして、どうやら「あれ」と「これ」で言わんとしてる「概念」自体が近いぞ、なんてこともあろう。そして今回、今の僕にとって重要そうな雰囲気の概念のまとまりを、「えいや!」と一つで掴めるものを見つけたのだ。
それが「フィボナッチ戦略」である。
さて、始まりました。アイディアの生煮えひょいひょいです。はじめましての方、お世話になります。
フィボナッチ戦略(導入編)
物事は動き出しが一番だるい。自転車のこぎ出しと同じで最初が一番重い。そういう風にできている。これは自然には「慣性の法則」があり、「現在の状態」を保存しようとするからである。つまり、止まっているものは動きたくないし、動いているものは止まりたくない。
例えば、小学校の夏の体育、プールの授業でみんなでぐるぐる回って「洗濯機」などをやったことがある人は、最初はただゆっくり皆で同じ方向に歩くだけなのだけれど、段々それが楽になり、「はいじゃあ次は逆周り~!」となると「うおおお」の経験があると思うが、あれのことである。
基本的には、最初が重い「物事をどのように動かしていけるか」について考えたいので、逆回転の「うおおお」の部分は、お忘れ願いたい。
そして、この慣性の力は「自転車」や「プールの水」のような物理的なものに限定されるわけではなく、人の心理にも通じるところがある。例えば、寝起きが一番眠いし、かっぱえびせんは止まらない。
特に後者、かっぱえびせんについて考えると、ひとつの行動をした後には、自分がその行為をしたこと自体による、心理的な余韻が、次の行動の方向づけにも一役買うところがある。も一個食べよ、と。
こういうのは、多分色々とあって、
例えば、いくらかの自明な質問(今日はいい天気だね)の返答にYesを重ねた後では、必ずしも自明でない質問(お茶でも行かない?)を尋ねられた時にも、Yesと答えやすくなる「イエスセット」だったり、
最初に小さなお願いを聞いて貰って、その「ついでに」本命のお願いをすれば、そちらも受け入れて貰いやすくなる「フット・イン・ザ・ドア」みたいな話にも、通じるところがある。
そういう本で読みました!
上の例は、ネガティブに捉えられるきらいもあると思うが、ポイントは1つの行動の「余韻と記憶」が、次にまた同じ様なことをするハードルを下げる、こと。「前にもやったことがある」から(大丈夫)と。
一回やると、その繰り返しのハードルは下がる
さらに何かがうまくいってる時は、1つ1つが経時的に積み重なった際に、個々の合計の価値が、1つ1つの単純和以上になる「複利」の効果を獲得できた時だというのも、ままあることだと思う。
例えば、ユーザーが増えるほど、そのサービス全体の価値が増す「ネットワークの外部性」もこの積み重ねによる「複利」の一種だろうし、「てこの原理」で知られるレバレッジの発想も、どうもこの辺りの、近いところに生息している感じがする。
1つ1つの積み重ねが、複利的に積み上がるとイケてる感じになる
そして、これらの「1つ1つの連続をいかに作れるか」を検討すれば、最終的には、最初のステップを、とっても小さくして(小さく初めて)それを「小さな習慣」として続けることが奨励されそうだ。
以上、ごちゃごちゃ書いたが、これらの「似たような概念」は、たった一つのコンセプトでもって片付けられる。
それが今回の主題たる「フィボナッチ戦略」である。まずは、以下のフィボナッチ数列を眺めるところから始めたい。
1,1,2,3,5,8,13,21,・・・
フィボナッチ戦略(具体編)
フィボナッチ数列とは、最初の2項を「1」とし、直前の2項の和を次の項とする数列のことである。例えば、上記6つ目の「8」は、直前の2つである「3」と「5」の和になっている。
そして、この数列には、先に挙げた重要なエッセンスが詰まっているように思う。以下の3点がそれにあたる。
①最初が重い(慣性の法則)
②直近2項の和が、次に影響する(複利)
③ある一定のラインを越えてから跳ねる(上記2つの組み合わせ)
順に確認する。
①最初が重い(慣性の法則)
これはその数列を、しげしげと見たらその通りで、この数列はなかなか増えてくれない。1,1,2,3,5,と全然増えない。5回目までは「1」の積み上げの単純和以下にしかならず、6回目でやっとこさ「8」になる。
②直近の2項の和が、次に影響する(複利)
この数列では、1つ1つの重ね合わせの影響は、過去に離れるほど弱くなり、3つ以降「前」のものは影響がなくなる。
ふむふむ。これは例えば、直近2つぐらいの仕事でもって、次に手に入る機会が決まってきたりだとかに通じるところがある。ホップ、ステップあってのジャンプ。
逆に言えば、「1ミスはアリ」である。毎週更新のハズが1週間飛んでも大丈夫ってことになる(多分)
そして(質の議論は後に回すが)うまいこと積み続けられた暁には、連鎖的な相乗効果(複利)が期待できる、そんなモデルになっている。
③ある一定ラインを越えてから跳ねる
前述の「複利」効果を実感できるようになるまでには、①、②も合わせて、少し時間がかかるんだよ、という個人的に重要なポイント。
所謂「キャズムを超えるまで」などと、言われるところなのかもしれない。これあるわー!っていう実感を持って語れる個人的な経験は特にないため、今は希望的観測でもある。
再掲しよう。
ちなみに自然界には、向日葵の種の数など、このフィボナッチ数列が色々出てくるようだ(参考)
1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89,・・・
ちなみに、ジョジョの第6部には、「素数を数えて落ち着くんだ・・・」という有名なセリフがあるが、最近の僕はもっぱら、何かの焦りのようなものを感じたら「フィボナッチ数列を見て落ち着く」ことにしている。
さて、ここまで紹介したところで、読み手からは、きっと以下のような鋭い反論が展開されると思う。
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Q1.) 物事(及びその習熟)は、単純な「数直線上の値」で模擬出来ようか?
Q2.) もしQ1.)が出来たとして、積み重なる「1」を定義できようか?
Q3.) もしQ2.)が出来たとして、今が「どこか」を判断することは出来るか?
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フィボナッチ戦略(Q&A編)
上記の質問を解消出来る(反論に耐える)かどうかが、このコンセプトのイケてる度合いに関わるところである。「戦略」とまで冠したところなので、頑張って貰いたい。
結論から言おう。「ギリで耐える」と。
そして納得に足らないファクトはこれから作る、と。
順に検討してみる。
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Q1.) 物事(及びその習熟)は、単純な「数直線上の値」で模擬出来ようか?
ー曰く、何かしらの物事の出来、不出来を、単純な一つの「数直線上の値」に落とし込むことなど出来ようか。それによって、見落とすこともあるのではないのか。我々の一つ一つの行為は、人間の営為は、もっと多様な広がりを持った「可能性空間」に打ち込む、命の弾丸ではないのか!!
A1.) なるほど。確かにそうかもしれない(エモい読者やな)つまり「出来るのか?」と「やっていいのか?」の2つの論点がある。
ここでは一旦、「できるっしょ、いいっしょ」論陣を張ってみたい。ただし条件付きである。
ご指摘の通り、この「数直線上の値」はひとつの代表的なパラメーターに過ぎず、多様な可能性空間の全てを語れるものではないし、第一比喩である。その目盛り自体が主観のかたまりであり、正確さを期せるものではない。
ただ一方で、物事の練度には「厳然たるレベル」が存在する。
例えば、「文章のわかりやすさ」を物事の例にとったとすれば、何が1で、何が100かを議論するのは難しいが、その程度差は確実に存在する。僕の文章は、上手な人のそれと比べると、読者をガンガン置き去りにしてしまう。
だからこの場合において、その評価指標の一つを、仮に「読み始めた人が、途中で脱落せず、最後まで読み切れること」と設定するようなことも出来るだろう。英語力をTOEICで測るように。
そういう意味において「のみ」出来るし、やっていいと思う。
しかしやはり本質的には、質問者の問うように、可能性空間に広がる「影響力(効果性)の全体」であったり「自分にとっての納得度」を評価するのがフェアな態度だ。
例えば、この文章も100人中、果たして、何人ぐらいが読み切れるかわからないが、その読み切れた幾十人かのうちの、たった1人に深く突き刺す。それだけを目指した文章なのであれば、評価指標のパラメーターを「完読率」にのみ限定しないほうがいいだろう。
やはりこの目盛りは、比喩でしかなく、自分にとっての「すごさ」ぐらいに考えている方が妥当な気がする。A.マッソ加納のワードセンスのように。
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Q2.) もしQ1.)が出来たとして、積み重なる「1」を定義できようか?
ー曰く、物事の程度差やレベルについては(実感で)あるとした上で、どんな「1」が、その物事の出来を高めるような、複利の効いた、積み重なる「1」になるんじゃい。その「1」定義出来んのかお前、と。
A2.) なるほど、それはそうですよね。(ガラ悪いな)
この議論は、一瞬で決着してみせよう。「わかりません」と。
ただ勿論、仮説はあります。
サッカーで考えるならば、「指向性」の共有された「異才」が束ねられてるチームが強いと考えます。ダービッツが11人いるチームも驚異ではあるが、ところどころ、セードルフも入れたい。
オクラのカレーも美味しいけれど、夏野菜カレーの中にオクラも、ナスも入ってる方がさらに美味しい。そんな発想である。
ここで、ひとつ、実は前の章の中でカバーしていない事柄があることを告白したい。
一回やると、その繰り返しのハードルは下がる
これは「だからその繰り返しを、どんどんやっていけばいい」ということを意味しない。むしろ逆。引っ掛け問題である。
そんなものを見た日には、ハンター協会のネテロ会長から「それは悪手だろ、蟻んコ」と言われてしまうに違いない。
それでは「ダービッツの量産」になってしまう。一瞬非常に強そうだけど、欲しいのは「異才」である。セードルフであり、コクーであり、ファン・ブロンクホルストである。ちなみにファンボメルは要らない。ダービッツの方が強いからである。
サッカー選手のたとえが止まらない。慣性の法則である。
このことから、積み上がる「1」の仮説は、これまでとは異なる、でも同じ方向を目指した「1」行為であると着地したい。
***
Q3.) もしQ2.)が出来たとして、今が「どこか」を判断することは出来るか?
ー曰く、積み重ねる「1」があり得ること了解しました。では、その目指すものが、遠くにあったとしても、継続的に有意義な「1」を、小さな習慣でもって積み重ね続けられるならば、フィボナッチの複利が働き、いつしか届くタイミングがある可能性を信じることもできようと思いますが、して、「現在地」のほど、どう考えればよいか。ご教示下さい、と。
A3.) ありがとうございます。(品ええな)
これはすいません。本当にわからないです。
もう一度、フィボナッチを眺める。。。
1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89,・・・
うん。少し、落ち着いた。
今の僕は、2あたりかな、と思っている。
(以上)
よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。