見出し画像

がブリチキンされることなく、鳥貴族と洒落込みたいもんです

「実家が太いのは強いやん」

そう言われて、おう、すまんな。とだけ返す。そこは僕の痛点だから、それを言われちゃもうしまい。気の利いた返しもできなくなって、押し黙って、はい論破(される)

この感じは「美人はいいよね」と言われる気持ちにも、似てるのかしらん。それまで何を考え、何をしてきてたとしても、全てはその一点で回収されてものを言えなくなる感じ。どうなのだろう。一度話し合ってみませんか。

みませんよ、と。

***

さて、もちろん異論はある。

いつまであるかわからない。積極的に頼った覚えはないし、むしろなるべく頼らないようにしてきた。それにあぐらをかいて生きてきたつもりもない。そこで判断されたくなかったから、自慢するより隠してきた。色々言いたくなるけど、一切無駄。程度の問題こそあれ、その指摘は完璧に正しいから。

そんなことより。

なぜそんな発言をさせてしまったかの方が重要で、そもそも他人と自分を比べて羨むのはさもしく、基本的に無価値でナンセンスだから、当然言いたくて言うようなセリフではない。単純に、僕の不用意な発言に対する違和感や嫌悪感を、端的に指摘したに過ぎなかったのだろう。

すなわち。

僕らは似てるところがあるんじゃない?という発言への反論だった。お前と一緒にすな。お前の方が遙かにイージーだ。こっちがどれだけ大変かわかってない(わかってくれよ)ってことだったのだろう。

Handle with care

僕はいつもこれに失敗する。特に弱っている人には、浅慮の一言が致命的に響いてしまいかねない。そのうっかりした一言が、たとえば上記の「みんな一緒」に代表され得るようなやつは、相手の自己重要感を削りうる。

悪気はない。一緒に頑張ってこぐらいの軽いノリ。それでも受け取られ方は違って、それが全て。安い共感は無理解と同等に嫌悪される。安易な共感という謂わば「あるある」は相手の「ユニークネス」を貶めて、ひいては人生に対する張りのようなものを萎えさせてしまうのかもしれない。

つまるところ、上から目線の共感ほど嫌なもんはない、ということだろう。そこに悪気があろうと、なかろうと。

***

持たざるもの弱い立場のプライドは、持ってないこと弱さそれ自体か。そこへ来て持ってるように見える奴が「それも持ってる」感を出してきたなら、舐めんなと。猫も食うたるど。怒れるチキンの痛点ガブり。Bump of Chicken。がブリチキンの刑である。

傷つきやすい人繊細な人は、一転すると強い人。ゲームが変わる。想像力をゴリゴリに問う薄氷のコミュニケーションが始まる。おうともよ。望むところだが難しい、ただ単に難しい。メッセージアプリじゃ顔も見えないから、余計にミスも出てしまう。

出来ることなら、ホテルの「Do Not Disturb」みたいに「Handle with Care」のサインが欲しい。そうすればこちらも「わかる」を減らして「そっか」を増やせるから。

察する努力を放棄するなという指摘は妥当だが、互いに歩み寄ればよいのではなかろうか。

その時の自分にあったホスピタリティを受けるために「ほっといて頂戴」のサインを出すように、今の自分にあった親しさを受けるために、薄っぺらな共感ではなく真面目な理解を促すような「取り扱い注意」のサインを出してみる。これで互いに無用な血は流れない。

そう。なるべくなら、がブリチキンはされたくない。そんなもんより互いの弱みを武器とか笑いに変える鳥貴族。そう。僕は鳥貴族が好きなのだ。

(以上)

写真:上高地 2020年10月

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。