奥飛騨慕情
風の噂に一人来て、
と歌ったのは、竜鉄也という盲目の歌手であり、彼の名を今に留めるのが、昭和の名曲「奥飛騨慕情」である。
4月13日の今日。僕が一人逗留するここ奥飛騨の窓の先にも、白くけぶる山々に、葉のない木の梢が、春の氷雨に揺れている。
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「これまで、あまたの人が時代を越え、不遇を耐え忍び、長い長い血の滲む戦いの果てに獲得してきた国民の自由や権利は、国家の暴走なり、国家からの無用の制限なりに侵犯されぬよう、法治国家の名の下に、幾重にも法律を組み上げ守られてきたはずなのに、それがひとときの会見で、まるで簡単に無効化されてしまうのには、驚いてしまう」
という趣旨のことを、彼女は言った。
最早、個 vs. 国家の次元ではなく、ヒトという種の存亡の危機であり、超法規的措置さえやむを得ないといった意見もあるだろうが、僕はハッとした。
気がつけば僕自身、そういうもの、という「空気」に飲まれていたから。
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「日本人は勤勉だから・・・」
テレビから流れる「A型は真面目」的な、紋切り型のフレーズが、僕の胸にチクりと刺さる。そこには、メディアにより拡声された同調圧力を感じる。ああ、そうか。メディアにはこういう役割(?)もあるのか。
ひとりひとり全く異なるアイデンティティを、カテゴリーで回収するのは、どうなのかしらなどと思いつつ、結果がよけりゃ、プロセスも肯定されうるものかとも思う。命 vs. アイデンティティ。命以上に大事なもんもあると、主張するのは勇気が要ろう。
無神教が多数を占める日本においては「空気」が神。命を守れの大号令は、神のお告げのご神託。ことのついでにやり玉に挙がる飲酒や喫煙。どこか空気に流し込まれる人の気配。ああ、流されてしまいそう。
自分の頭はどこへ消えた。ハンドルを握れ。頭のアイドリングを止めて、エンジンを吹かせ。自分の頭で考えろ。何か出るか?
とりあえず、もし僕がA型に生まれたら「A型は真面目」と言うてきたヤツの名前はきちんと帳面に名前をメモして、「そういうヤツ」とラベルを貼ることにしよう。真面目人間による意趣返しである。
なんじゃそれは!
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色々な物事やその仕組みが「世の決まり」として自分の外側にあって、何も分からぬ木っ端には、それをふむふむと理解し、そこでの適切な振る舞いを検討するので大過なかった。
でも、それだけではもうよくないのだろう。
それはそうと「決まって」いたわけではなかった。これまでの流れの中で、ある程度機能するハズという仮説であった。そこに不足があれば、何度でも作り直す必要がある。でも、どうやって?
どんな木っ端であろうとなかろうと、一人じゃ生きられないのなら、何かしらの人間の集団的な枠組みの中で役割を持って生きることには変わりない。だから、僕も僕自身のスタンスと意見を持って、何がどうあるべきか、を考える必要があるのだろう。
我関せずでは、よろしゅうおまへんな。
Otherwise, メディアの言うことをただありがたがって受け入れて、他者にも「常識じゃん」と求めるだけの唐変木になってしまうだろう。
賢くなりたいぜ。
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抱いたのぞみの はかなさを
知るや谷間の 白百合よ
泣いてまた呼ぶ 雷鳥の
声もかなしく 消えていく
ああ奥飛騨に 雨がふる
(以上)
よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。