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つぎはどんな物語を

一見ランダムでも、その場面、場面で感じて動いたことは必ず紛れるから、短いスパンでは見えない大きな流れや、物語が底流することを、以前よりは少しだけ信じられるようになった。

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“語るに足る人生”であること

そんな風に自分に期待した筋書きは、なんと単純で、短絡的なパターン認識に当てはめただけの、没個性的で、複雑でもリアリティもない、“取るに足らない”人生だったろうか。


――偶然しか、意味を持ち得ない

人生にずっと訪れ続けている、「短命な悲喜こもごもの偶然」を抱きしめ、絡まり、頭を抱え、懸命に戯れるように過ごすことから、ようやく強度のある意味が、特別な意味が立ち上がる。


才能とは、継続できる情熱である

かつて羽生善治が語ったこのセリフは、特定のテーマに対して、長期間に亘って同じ熱量・気力・モチベーションを維持できる情熱こそが〝才能〟である、ということらしい、が。

では、どのようにその情熱が維持されるのか、を考えると、きっとそれはただ無条件に持続されるものでもなく、その過程で、「強度のある意味」の供給がないと保てないのではないかと思う。少なくとも、僕の場合は。

そして、そんな「特別な意味」も紐解いてゆけば、先の通り、日々起きている偶然の魔法に還元される。それは日常での人や事物との出会いであり、語らいであり、かかわりであり、エネルギーの交換であって、それだけのことらしかった。

自分とその環境の間に編み上げた偶然の織物であった。

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特別でないように感じる中に、尊いまでの希少なことはさりげなくあって、平凡の中にこそ非凡がある。でも、それに気が付けないピンボケの時間ばかり容易に降り積もる。ボケた世界でノイズに踊り、うっかりまた歳を取る。

人生において重要なことは、メタファーの形で何度も出会っているし、これからも出会うんだろう。例えばそれは、次の一言でもいい得てると思う。

「コーヒーが冷めないうちに」

つぎはどんな物語を

目の前に起きていることに対して、自分なりに感じ、考えて、この身ひとつを投げる。そうすれば、「無を含めた反響」は必ずあるから、その繰り返しで、即興の旅を続ける。

機会は偶然に頼み、場面で出し惜しまない。

これが恐らく、ここ数年来の「無を含めた反響」の中で学び得たこと。その先の自由は、多分淋しさとの引き換えになるのか。

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ひとつの物語の終わりには、次の物語のきっかけが紛れ込む。終わったものの切片から接木をするように、次に繋げることも出来ようし、もし鳴っているものが聞こえないいなら、しばらく休んでみるのもよいハズで。

健康一番、才能二番、てか。

今思えば、“語れる”必要なんてなかったなぁ。最初から。

(以上)


よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。