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【幕間⑨】誰も見ていないかのように踊れ

どうも、お久しぶりです、幕間です。

まずは、この書き物のジャンルを設けている役割を、書いている本人がうる覚えなので、思い出しながらご紹介します。

僕にとって文章は、思索の詩作施策です(「しさく」を3つ並べてみました。)ゆえに書いてる時は、その内容に少なからず酔っているため、「上手に書けた」と思った時ほど、酔っぱらいのポエムが出来上がります。

それを若干冷ややかに、でも結局は情に厚く「全くしょうががねぇな」みたいな下町情緒あふれたるおやっさんの目線が必要です。

それが幕間です。

書きものの一つ一つが舞台なれば、その幕の合間に現れる、客観の役割を仰せつかります。一人二役の、二役側。配役は一人っ子編集長です。てやんでい。

目当てを失ってからが、本当の旅

江戸っ子編集長としては、書き手が道を失ったときには、どしたい、と出てきて、ほうほうと聞いて。「こしたらどうでい」と示唆を与えたいところですが。

何せ同じ人間なので、思考回路が変わらない。結果、一緒に悩むことになります。さて、こんなときはどうしたら。

心の声に耳を澄ませ、的な?


規定演技を終えれば、即興の世界

誰にも伝わらない心の声がこんにちは。

超訳すれば、好きにしなさい、と。個人手配の自由旅行のコツを学んだら、あとは好きな方に向かえばいいじゃない。人生はフリースタイル、孤独でも忍耐。Mr.Childrenはいい詩を書くなぁ。

目当てみたいなものから自由になって、心任せの足任せ。その瞬間に鳴ってる方に向かえばいいさ、と。

余談ですが、僕はこの「旅」の比喩が好きでよく使います。この世に生まれた意味を探して彷徨さまよう旅が人生です。心動かされたときの、書き物が方位磁針になります。多様な人やモノや思想との偶発的な出会いが、その意味をかたどるであろうことまでは、実感が湧いてきました。

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そして意味を求ればこそ、先の通り、浅薄な計らいからは離れる必要がある気がします。

自分の思考の埒外、バイアスの外側。これまで見えていなかった、知りもしなかった大きな何かに触れて、想像し得ない方向へ導かれてゆく。しばらくして振り返ったときに、やっと意味が通じる。

「そうか、こういうことだったのか」と。

それは自分にだけ納得される種類の、誰とも交換出来ない、実感の伴ったものになる。ランダムな出会いの連続(人生)の中に、何かしらの物語(意味)が紡がれる、とも言い換えられるかも知れない。

だから即興的であることは、ある意味クソ真面目な態度でもあります。可能性に身を開くこと。自らを世界に差し出すこと。これは自由な旅を楽しむためのお作法も通じるところです。

あっという間にポエムになってきました。全くコントロールが効きません。どしたんでい。どしたんでい。

即興がどうしたって?

さて、話をどうにかこうにか、「今後、何をどう書いていくんじゃい」という一人っ子編集室に戻しませう。

ざっと振り返るに、「旅日記」から始まり、テーマもメンバーも発散・収束しながら、これまで続いてきているこのnote。最近は自由即興という名の放蕩息子。期限も目標もないものになってきています。

まっ、それもいいんじゃない、旅は自由だし。

とシャンシャンで済ませたいところだけれど、チョイ待った。そいつは危険信号じゃないかしら。即興にも型なりスタイルはあるべきで「なんでもあり」は「どうでもいい」に劣化する気がする。遠からず。旅鴉。

こんな風に、勝手に裏で考えておけば良さそうなことを、舞台袖から飛び出しごちゃごちゃ言い出すのが趣旨の回です。ようやく編集会議の議題が決まりました。

今後の「即興に型なりスタイルを与える」のが、今回の幕間の目指すところです。


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記憶によるシミュレーションを離れて

即興とは何か、という深遠なテーマに立ち入るのは、僕が多分一番書くべき「こなくそ日記(仮)」に任せておいて、ここでは、大雑把に逆を考えてみます。

即興ではないものは何か。これなら簡単。臨場的でないものでしょう。自分の生身で触れている「今ココ」に向き合わないもの。それはただのコピペであり、一般論であり、3回目のデートで告白です。

一般論にも価値はあるけれど、人は一般論ではどこにも行けないとは、村上春樹の惹句であるな。

でも、どうしてそれをしたくなるかと言えば、不安だから。なぜそれを不安に思うかと言えば〝優秀〟だから。過去からのパターン認識の精度をこそ〝優秀さ〟であると学び、そんな外部評価での、成功や失敗体験が積み上がり、自ずと自己評価へと接続されるに至った価値観の呪縛。それはもう置いていかなくちゃ。

日々、全く新しいものと出会っている最中にも、記憶に呼び戻される。あの時のあれと似ている、これと同じだ。丸みを帯びた安心と引き換えに、その場にあるリアリティを手放してしまう。人の話を聞いてる間にも、自分の昔話に取り込まれ、現場にあることから退いていく。

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ではどうすれば、過去の記憶によるシミュレーションを避けられるだろうか。もしそれが足かせになるなら、過去を忘れたらいいんじゃない。記憶を捨てたらいいんじゃない。そうしたら、今ココしかなくなるんじゃない。そんな思考実験。

過去の記憶や経験を、足かせと言い放つのは、放言が過ぎますぞという制止をえいや振り切ろう。

全部、やめちゃえばいいんじゃない?
過去の蓄積とか、積み上げとか、実は幻想なんじゃない?

それはちょっと勇気がいるなぁ。記憶のないところには、これといった打ち手のストックもないし。それは暗闇に手を伸ばすようなもので。せめてサーチライトの一筋でもないと、と。

喩えでひらめく、最初の一歩。

そうか。暗闇に手を伸ばす、のか。

何も知らない赤ちゃんが手を伸ばして、世界とのつながりを作っていくように。ただ、音のなる方に近づいて、身体の感じるところに素直に従って触れて、少しづつ通わせていくのか。

即興におけるスタイルのひとつめの方針は、これでいくことに。

「暗闇に手をのばすこと」

晴れて、酔っ払いポエムの完成です。ちゃんちゃん。

即興語録
▶「暗闇に手を伸ばす」とは、自らの身体性を拠り所にして、よく響く音のなる方に手を伸ばすこと。書き物で言えば、まだよくわからないけれど、ぐっとくるものを相手にして、わからないながらに書くこと。

(以上)

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。