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廃美~朽ちゆくとき~

じつはULAURA、廃墟撮影が大好物。
「廃墟」という言の葉がまず語弊があるという人もいる。
ULAURAはとくに気にはならないが、個人的には「廃美」と表現する。

心霊スポットと言われることが常の、俗にいう廃墟。
建造物に限らず、この世に生まれて朽ちゆく姿に、存在意義があったという尊さに気付かされることはないだろうか?

人に刻まれた皺もそう。
動かなくなった玩具もそう。
誰にも抱かれることがなくなったぬいぐるみもそう。

朽ち絶える最後の最後まで、そこに存在する姿に全盛期の面影が重なり、美しいと思うのだ。

いわゆる廃墟に、興味本位で心霊体験に行ったことはまずない。
朽ち果てる前に、その存在意義を美しく遺したいと感じるULAURAを「それは変態」という人もいる。

自然界の生命が廃墟の化粧となる
美しすぎる朽ちゆく姿

まったくもって同感、かつ問題ない。
美的感覚の違い?というわけでもない。
ノーマルに万人と同じ感覚で、美しいものは美しいと感じる。
ただ、万人のいうところの美しいとは、誰から見てもほとんどの場合、美しい。

ネット社会、SNSでは溢れかえるほどの同じような美しい画像が残されている。

おもしろくない。

誰の目にも触れないような歴史を持って、ひっそり美しくホコリを被りながら朽ち果てるのを待っているモノ……なぜだかそこにULAURAは心惹かれるわけだ。

朽ちゆく見た目スピードの速さでは代表格は「人間」かもしれない。
命あるものの朽ちゆく歴史に比べると、建造物の朽ちゆくスピードは主を失くしたあともゆっくりとゆっくりと進む。

本来ならば彼らは新しい主に見初められ、手入れされ、再びの輝きを取り戻したいと願っているかもしれないのだ。

解体すらされず、ひっそりと(あるいは人に心霊スポットと傷み嫌われながら)雨風にさらされて、朽ちゆく姿。

哀しみと愁いの極みに、痛く惹かれるULAURAを変態扱いする人は多い。

それでもULAURAは廃墟という朽ちゆく姿を嫌いになれない。


鳴門を望む部屋
外壁は朽ちゆき剥き出しの鉄骨を蔦が彩る

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