祈りについて

最近、「祈り」についてつらつらと考えています。

きっかけは、8月に行うワークショップ(真言宗のお寺をお借りするので)の準備の一環で見た北大路欣也主演の「空海」で、一番印象に残ったのが「祈り」のシーン、とくに空海が満濃池を作るとこ。彼本人の行いは「祈り」に尽きるんだけれども、結果として人を動かし、他の誰にも不可能と思えた奇跡を形にする、祈りとはなんであろうかとずっと考えています。

私が見たときはAmazon Primeで見られたんだけど、今リンクを取るために見たら値段設定がついてた。無料期間終わっちゃったのかな・・・?

それに連動して思い出すのは、昔(2011年)サガルマータナショナルパーク(いわゆるエベレスト街道)に7日間のトレッキングに行ったときのこと。

トレッキング自体について、その気になれば、山ほど語れることがあるのですが、こと「祈り」に関して少し思い出すことをシェアします。

地元の山岳民族の多くは、敬虔なチベット仏教徒です。

街道沿いのそこここにストゥーパ(仏塔)やタルチョ(5色の旗)があり、村のロッジでは、おばあさんが窓際に座って数珠を繰りマニ車を回しながらお経を唱えていたり、朝になると各家が庭の竈で香りのよい香木の葉を焚いたりしているのが日常風景でした。

行程中にたまたま灌仏会(お釈迦様の誕生日)のお祭りがあったのですが、我々登山客がさっさと寝に就いた後、地元の人たちは集まって宴会をしていて、そこで皆でボブマーリィの Get up, Stand up を唱和していました。

私たちが目にしたエベレスト街道の人たちの生活は慎ましい側面もあるけれど、美しいことばかりではなく、目前の神様のおわす山々から攻めてくる自然の容赦なさと、下界から攻めあがってくる資本主義の尽きない要求とのサンドイッチになって、どうにもならなさとも隣り合わせでした。

そんななかで「祈り」が生きていました。

毎朝竈から立ち上るいい香りとして、人の口を突いて出るお経として、バザールで売られている、チベット人たちの持ち込んだ銀の仏具として。

スコールが降れば、地元の女性たちが家から出てきて長い髪を櫛削る、水道のない生活として。チキンカレーを頼めば裏で鳥を絞めるところから始まる料理は登山客といえど残してはならないという不文律として。ロッジの中の裸電球の明かりも頻繁な停電で暗闇になれば、夜空の星の明るさが白い山を照らす、闇の近しさとして。

ちなみに、そんなエベレスト街道の住人から「さらに貧しい人たち」とみなされてるチベット族の世界観を少し垣間見るには「キャラバン」メチャクチャ映像が美しい映画です、おすすめ

その逃れようのなさが、ボブマーリィに肚落ちするっていうのは、何となく、わかる気がしました。

首都カトマンズでは密教的な仏教とヒンズー教が隣り合って混沌と、貧しいながらも仲良くしている感じです。但し、それは1990年代後半に初めて観光に訪れた時の印象で、その後、王族の暗殺やなんやかんやあって2011年に登山後に短期滞在した時にはかなり町が荒廃している印象を受けました。美の都ラリトプールも先の地震で壊れてしまったし、今は人の心も変わってしまっているのかもしれません。

それに比べて、いろいろなものの栄養素が薄まりつつも、最低限の衛生要因はエフォートレスに満たされる現代日本に生きる私たちにとっての「祈り」とは何なのか。

私自身は西洋的宗教観に照らすと無神論者に近いと思いますが、自分よりはるかに大きなもののなかで生かされている気がしています。だから、忘れがちだけども、本来「祈り」とは、実は思いを巡らすに値する、大事な行為でなんじゃないかなと。そんなことを、考えています。

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