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公共交通の「公共」性を問い直す~「批判的理性」を軸とした公共性の再生~

 激動の2020年度が終わろうとしている。感染症の拡大も含め、公共交通政策を考える上では利用者の大幅減、クラスター対策、などが叫ばれる一年であった。私自身も新たな視点を得て、「新しい公共」と交通との関係性について考え直す機会を、継続して得させていただいている。

 今回のnoteでは、この1年間である程度ため込めた知見を下敷きに、私自身の問題意識、そして岡野秀幸先生以来の議論となる「公共交通の『公共』」についての考えを、ここに纏めせていただきたい。

公共交通へ公共を導入するとは~サービスとしての公共交通、その暴力性~

 まず、「公共交通に公共を導入する」とはいかなることか、について説明したい。公共交通の「公共性」については従来、様々な先達たちが議論を重ねてきた。例えば、岡野秀行先生は「『公衆』交通の『公共性』」(1980)の中で、公共交通の「公共性」は誰に対しても、差別することなく、移動を提供することにあるとしている。大塚良治先生は「公共交通の意義と持続的運営実現の論理」(2019)の中で、「(公共交通は)採算確保が求められる『営利事業』の性質と,供給が行われると同時に多くの人にとって消費がなされる『準公共財』の両方の性質を有する」としている。これらに共通するのは、公共交通は「すべての人間が利用できる」という点が公共的であると考えられ、またその考えが受け入れられてきた点である。公共交通に関する英米の対応語がcommon carrierやpublic carrierである点を見ても、公共交通における公共は、対応する英訳の双方について、不特定多数の利用者を前提としていることが分かる。

追記(04/09):Common CarrierとPublic Transportationの差について記載しておく。Common Carrierは英国におけるCommon Lawの概念から生まれたCommon Callingsに端を発し、日本語へ正確に訳せば公共輸送人である。PublicはPublicus(人民)より成立した言葉であるが、Public Transportationは「人」や「主体」という意味が薄いように見受けられる。つまり「公共交通」をPublic Transportation、「公共交通機関」をCommon Carrierとするのが妥当と考えられる。

 ただ私は、このような公共交通の建付けはかなり暴力的ではないか、と考える。というのもこの建付けでは、公共交通の利用者は「利用者」であり、それ以上でもそれ以下でもないからである。つまり、利用者は利用者として声を上げることはできても、提供者と利用者が分離される以上、その結果は提供者を拘束できない。サービスの受益者はまさに利用者自身であり、彼らはハーバーマスの言う「批判的理性」をもってサービス提供者と向きあえなくなるからだ。結果として公共交通においては、福祉政策をはじめとした『行政サービス』などと同様に、提供者都合が優先され利便性の低下が続くこととなる。

 この状況について、批判的理性を持つ主体を再生し、以て公共交通における「公共」を再生せんとすることが、「公共交通に公共を導入する」という私自身の目標である。単にすべての人間が利用可能である、という点を超えて、すべての人々がプランの立案に参加し、討議を重ね、公共交通の現状分析や将来構想を可能とする制度づくりが肝要だ。

公共交通の利用増を目標とする理由と推進スタンス

 私自身の考えとして、自動車の利用が相当に多く、また高齢化が加速する日本の現状について、若年層も含めた公共交通利用への転換をある程度進めるべきだと考えている。

 そもそも、移動は経済的・文化的に見て重要なファクターだ。日本国内の例をいくつか取ると、国風文化は遣唐使派遣の中断による日本国内文化の見直しに起因する文化的潮流であり、建築・絵画様式の変化や文字の変化など大きな転換が発生した。江戸時代の江戸の発展は、軍事的性格を併せ持つ街道の集中的な発展とともに、参勤交代という移動の強制と大量の藩政関係者の江戸への流入が大きな役割を果たした。現代社会において移動は、世間が統制の必要ない状態であることを前提として、制限されないものとして扱われてきた。新型コロナウイルスの感染拡大がこれにブレーキをかけている現状ではあるが、スペイン風邪やコレラなどの過去に起きたパンデミックを参照しても、移動の制限は続くものではないだろう。

 次に、年代を超え交通手段を継続的に進めるためには、公共交通手段の利用促進をすすめねばならない。まず、公共交通は自動車利用よりも体力を消費する。名古屋市によれば、公共交通利用は自家用車利用と比較して、2倍のカロリーを消費する。一方で、体力のある年代ほど、外出に自家用車を使う傾向がある。つまり、体力が弱り切ってから公共交通へ転換する形が常態化しており、早い年代から公共交通手段を利用していただけるような働きかけが必要だ。

 一方で、自動車の利用について、それ自体を否定することは避けねばならない。公共交通から自動車へ、共有から所有への流れは、連綿として存在するからである。ジョン・アーリの名著「モビリティーズ」(2015)を引けば、自動車は個人により所有されるという特異さから、様々な面に影響をもたらしているとわかる。この中で、自動車利用を「捨て去るのは不可能」と断定される理由こそ、「道路利用の自由」である。自動車は移動を個々人のものとし、その権利は保証されるべきものとなった。であるからして、自動車を取り上げることは移動の自由を奪うことに、本質的ではなくともアイコニックに、例えば環境問題解決へ向けたプラスチック袋の利用禁止のように機能する。つまり、自動車の利用を防ぐ政策は抑制的に、一方で公共交通が選ばれるような政策は積極的に推し進めねばならない。

公共交通政策を検討するにあたって設けられる会議体

 公共交通の政策立案に全ての人を参画させるため、一番重要なのは協議の場を設けることである。近年では、法改正によるシステム変更に基づき、公共交通に関する様々な会議体が成立し始めた。これは、2002年に道路運送法の改正が行われた結果、地域の公共交通に撤退が相次いだ過去に起因している。当該法制を改正し2006年に設けられた地域公共交通会議、2007年に施行された地域公共交通活性化再生法に基づく生活交通ネットワーク協議会(また地域公共交通総合連携計画策定に係る会議体)、2020年に施行された地域公共交通活性化再生法に基づくMaaS協議会がその例である。このような現状を踏まえれば、公共交通の整備に向け、様々なステークホルダーで討議し公共交通利用を促進するシステムは整備されつつあるように見える。ただ、それは「みえる」だけで、単なる虚像ではないか。

公共交通に関する会議体の課題:各主体の消極的参加

 現行の討議制度について、公共交通の利用促進を進める固定化した主体が存在しないことを課題として指摘できる。先述した大塚(2019)では、ある一つのステークホルダーへの価値創出を優先して他のステークホルダーを犠牲にするのではなく,すべてのステークホルダーに対する価値創出を重視する考え方として「ステークホルダーアプローチ」を設定したうえで、「『ステークホルダーアプローチ』に基づいて、不採算路線の存続を実現する必要がある」としている。しかし、このような会議体においては、公共交通の利用増加による便益を得る主体がいない場合が多い。つまり、どのステークホルダーも利益を得ない未来へ、協調して歩もうとしているのである。これでは目標の実現は不可能と言わざるを得ない。

 まず自治体は、公共交通への支援に二の足を踏み、必要最低限を移動弱者の足を確保するために出資するにとどまる場合が多い。この理由はいくつかある。第一に、交通への投資は明確なリターンを生まない。地方自治体の主な収入源は地方税たる固定資産税と住民税、そして総務省より配分される地方交付税である。公共交通の発展は、この2つに明確な効果をもたらすとはわかっていない。さらに、交通への投資を強化するため交通目的税を導入せんとすれば、地方交付税が削減される可能性がある。このように、地方自治体の財政面からみると、地域公共交通への投資をこれ以上増加させるのは現実的ではない。

 次に、国策としての交通への投資スキームにはまとまった投資が必要なため、多くの自治体からは手を出しにくい。一番大きく、しかも自治体が拠出しやすいスキームとしてLRTがあり、これは地方債の発行が事業費の75%まで可能であるため、一番安く整備可能なものである。例えば宇都宮で導入実績があるが、地方債が発行できる不交付団体である点が前提であり、そうでない自治体からはハードルが高い。宇都宮がLRTを選択し、それが一番安価と判断されている状況からみると、他自治体がこのパッケージを利用するのは厳しいだろう。もちろん富山市のように、多額の投資で成長余地が見いだせ、住民の構造転換へ乗り出せた自治体もある。しかし上記の理由から、交通に対する大掛かりな予算拠出は、例えば欧州と比べて、日本では明らかに少ないように見える。

 公共交通の確保を求める住民も、「自動車が利用できなくなれば使う」という声が大半だ。例えば山口市で2006年に行われた調査では、公共交通の存続を求める理由として、「高齢者や学生には重要な移動手段だから」が半数を占める。岸和田市における調査(2015)でも、公共交通を存続させる理由として「今は利用しないが将来は困る」が6割を超える。一方で、公共交通は自動車利用よりも体力を消費するため、免許返納後の公共交通利用への転換は困難である。現状の住民意識としては、長期的な利益よりも短期的な利益、現在の便利さを重視しているように見える。例えば、東京をはじめとした比較的路線密度の高い3大都市圏での公共交通利用率は平日31%、休日18%となっており、これは地方都市圏での7%、4%を大きく上回る(国土交通省「全国都市交通特性調査」(2015)より)。

 交通事業者による利用促進についても、そう単純ではなく、うまく進んでいるとは言い難い。バスに乗らないのはなぜか?鉄道を使わないのはなぜか?という問いに、交通事業者が真剣に答えるには限界がある。彼らは企業体であるがゆえに、利用者の増加というよりはむしろ、運営の効率化に腐心せざるを得ないからである。旅客数が減少したときに、営業強化を怠る事業者がもしあったとすれば、自らの判断で利便性を下げ、悪循環に陥ることとなる。これは例えば、便数の減少であったり、運賃の値上げであったり、利用促進ではなく資本流出を止める方向に走ることとなる。むろん、十勝バスのような営業・価格攻勢による地域公共交通の「利用者目線」の標榜は、様々な事業者で行われているが、それ以外の目線、例えば増便やハード面の改修については、なかなか進まないのが現状だ。

消極的参加がもたらす状況:「批判的理性」の欠如

 以上の現状を総合した結果として、移動弱者たる高齢者や学生にフォーカスした公共交通政策が継続して仕込まれるが、インパクトに欠ける状況が発生する。この状況がさらに、公共交通へ「弱者救済」の性格に発される一方的な「サービス」としての性格を帯びさせ、より一層の悪循環を発生させる。つまり、提供者が何らかの商品を提供し、利用者がそれを選択できる状態になる。しかし、公共交通は住んでいる地域によって利用するものの多くを規定されるため、必然的に寡占または独占状態となる。

 特に独占状態であれば、公共的利益を保つためとして英国で設定されている空港利用料のプライスキャップのように、サービス提供者側へ何らかの制限を加える必要がある。ただ、このような規制を行う主体のうちに、公共交通の利用促進を求める主体が存在しない点が課題となる。ここに、ハーバーマスの議論から見い出せ教育政策のキーとなる「批判的理性」を持つ主体の不在を課題として見出せ、これの再生という課題解決策を検討すべきと考えられる。

今後の展開:公共交通で「批判的理性」を持つ主体とはだれか?

 ここまで見てきたように、公共交通において、その利用促進を積極的に求める主体が存在しない可能性がある。ただミクロ経済学を参照すれば、この現象は、限界収入が限界費用を上回る場合には発生しない。例えば都市を走行する公共交通、東京の東急電鉄、東京メトロ、大阪メトロ、京阪電車などはこれに当てはまらないであろう。本来的には公共交通事業者がその主体であったところが、ライフスタイルの変化や外出減が重なった結果、その役割が担われなくなっている。

 であればどのようにこれを解決するか。答えは明白で、地方でも利益を出せる交通関係の主体を意思決定の場へ組み込めばよい。ただこれがかなり困難である他、ここには利用者との共創、あるいは利用者を提供者へと転換する構図(≒「新しい公共」のアプローチ)が必要だと考えている。というのも、そのような主体がまた暴力性を持った場合、やはり利用者や交通事業者、行政機関が批判的理性を失うからだ。このアイデアは、意思決定に参加するすべての主体へ批判的理性を付与できる必要があり、これについては今後、新たな場で少しづつ検討することになろうかと思っている。

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