「宗教性」と意思決定;ミャンマーで考えたこと

「君は愛されるために生まれた」
 小学校の時に、よくこの言葉を言われたのを覚えている。しかし私は本当にそう適用されるのだろうか?愛されるために生まれた、と言うことは返報原則的に考えれば、私も他人を愛さなければならないことを意味する。しかし私が他人を愛することは、相手を確実に不幸にしてしまうため不可能に近い。と言うことは私は、ホモ・サピエンスではあるけれど「人」ではないのだろうか…などと考えること幾度も。

 ミャンマーで感じたことについて、書き残しておきたい。テーマは表題にある通り、「宗教性」についてである。私自身が小学校から高校までキリスト教の学校へ通っていたこともあり、そちらへ傾倒したような書き方になる可能性があることをご容赦いただきたい。

・「信じるものは救われる」という言説について
 他愛ない会話の中でよく、ではないにしろ嘲笑的に使われることの多い言葉に、「信じるものは救われる」がある。実際この言葉を中心に構築された物語は数知れないし、最近の起業界隈などはスピードが求められるため、ドライブするためにこのような言葉が利用される。つまり「信じる」という行為には、人の行動を大きく変える可能性が存在するのである。日本においても聖武天皇の仏教政策を始め、宗教が全体のマネジメントに利用された例は多い。そもそも組織を同一方向へ向かせる方法論の記述で一番古いものが、旧約聖書の出エジプト記に存在する事実からも、宗教と行動の関係性は強いと考えられるだろう。
 ただ、ここにおいての「信じる」には多様性が存在することに注意したい。この言葉に内包される関係は自己と信仰対象としての他者であるがゆえ、2つの変動要因が存在する。ひとつは信仰対象の選定、もうひとつは信仰形態である。これらの要素によって、数々の宗教は分裂してきた。キリスト教の例を出すと、ユダヤ教イエス派が伝道によってキリスト教として独立し、プロテスタントができ、正教会ができた。さらにそれらの中にも原理主義が発生し対立、というように多様性があるので、全ての信仰という行動を一緒くたにはできない。

・意思決定における宗教の役割とミャンマーにおける実態
 宗教は意思決定に、少なからず影響を与えるのは自明である。十字軍などはその自明な形であるし、大航海時代が宗教を伴って花開いたことからも、一種の啓蒙思想的なものが背後にある可能性を否定できない。同時多発テロ以降のテロへの反攻作戦(と言っていいのかわからないが)にも、当時のブッシュ大統領が持つキリスト教原理主義が大きく影響している。こう言った戦争以外にも、宗教を発端とした文化は世界各地に存在し、その影響力の高さを物語っている。日本においても神道や仏教を中心として、「縁日」を始めたとした祭祀をはじめとしたイベントが存在する。
 さらに宗教は、その人間の価値判断基準になるがゆえに、決定的な意思決定プロセスの差異を生む。つまり、「何を信じるか」が人間の行動に大きく影響するのだ。私が聞いた話では、ミャンマーにおいては大乗仏教との関係で、前世や来世との接続を意識する文化が存在する。現在でも多くのミャンマー人は、投資する対象は自らの来世であり、現世の不幸は前世における「寺院への」寄付の過少によるものだと解釈されるという。ゆえに病気、商売の低迷、人間関係その他の悩みついて、寺院への寄付が相当数に及ぶ。経済的には消費に資金が回らないため悪とされる行為ではあるが、彼らにとってはそれこそが現世を、来世を生きるすべなのだ。

・日本人の「無宗教」性と意思決定への影響
 一方で、日本人は無宗教であると考えられることが多く、その宗教や信ずるものに関してあまり語られない。というか、何か一般に宗教を信じることに関してハードルが高い傾向にあるように感じる。私自身も宗教を信じているわけではない、しかし私は日本人の「無宗教」性は実は無宗教ではなく、「無宗教」という名の宗教であると考えている。つまり広範に頒布されるの文献や事物には頼らず、自分の経験則に従って、あるいは社会の倫理と思われるものに従って生きているのみであって、その行為には宗教性がある。
 日本人の「宗教性」の特徴は、今までの神道的な虚像信仰(と彼らが考えるもの)を排除し、科学的な思考にその根拠を置くことが多いことである。私はこれ自体の善悪を判定するものではないが、ファクトが存在しないことについて信用しない傾向が強く、またその反動もかなり大きいように感じる。日本人も少なからず、一定の信条を持ち、それを元に価値判断をしていると考えて差し支えないだろうと考える。
 このように考えると、宗教を信じるか否かはさておき、人間の価値判断において「宗教性」こそが必須要件であると考えられる。つまり、何かを「信じる」ことが行動のきっかけになり、また対象の価値また重要性その他を判断するメータとなるのだ。何も信じられなければ、何も判断できなくなってしまう。また、あるアスペクトにおいて信じられるものがなければ、情報不足で判断は先送りになること自明である。

・終わりにー人間の意思決定システムは再構築されうるかー
 ここで私自身のことを考えると、何もできていない状況が目につく上に判断に迷い、自分で自分を成長させる軌道に乗っていない状態である。「面白い」「楽しい」「良い」と言った基礎的な感情が欠落した状況下で意思決定をする、このような状態は基本的な価値観がない点で、理想的な状況とは言い難いものである。このような状況は、ミャンマーにおける軍政下の意思決定に酷似する。現状でもその名残はあり、組織の下部、実務者レベルで意思決定をしないパターンが多いという。このような状況は、いかにして回復されるのか、あるいは回復する可能性はあるのだろうか。
 企業の再生事例において、新たな信条提示をおこなった例は数知れない。しかしそれは、もともと何かを信じた経験があったものへ適用されれば成果が上がるケースが多い。つまり「信じ込み」の度合いが強ければ良い。一方でミャンマーは民族が多様で多彩な価値観が存在するため、意思決定を高速化するハードルがかなり高いことは容易に想像できる。私自身に関しても似たようなもので、常にクリティカルに考えているためか「信じ込む」に至る青写真を描けない。宗教性のある事物を以って、いかに信じ込ませるよう「だます」かー。小節題を議論するには、そのあたりの思考が必要そうだ。

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