生きることの原点
金木犀の香りがどこからともなく漂ってきて、1年で1番好きな季節が秋です。
季節の変わり目で、体調はすぐれないので、年々踏ん張りがきかなくなってきた体やメンタルに少し憂鬱になりながらも、落ち込んだ時に思い出すことがあります。
私の生きることの原点は、私のおばあちゃんにある。
人生の色んなピンチで支えてくれた人。
大学生の頃、大好きで大好きで仕方なかった彼に振られた時。
新卒で働き疲れて不眠症とストレスでしんどくなった時。
…思い出せば色んな場面で、助けられてきた。
辛いときに、ふと会いたくなる人がおばあちゃんだったのだ。
うちのおばあちゃんは、天然ボケが服を着て歩いているような人。
若い頃、車のドアに自分で首を挟んだ、みたいな強強エピソードがたくさんある。
でも、頑固なお姑さんと暮らし、超頑固なおじいちゃんに尽くしてきた。
今はデイサービスに通いながらひとりで暮らしている。
おじいちゃんが早く迎えに来てくれないかなぁと言っている。
歩くのもゆっくりになったし、耳も前より遠くなった。
でも、おばあちゃんはおばあちゃんとして、毎日を過ごしている。
生きる意味ってなんだろう
きっと誰もが考えてきた、陳腐で意味のない問いだけれど、やはり考えてしまう。
朝起きて、ご飯を食べて、洗濯をして。仕事をして、お昼寝して、ご飯を作って食べて、片付けをして、寝る。
同じことの繰り返し繰り返し。
私だけではないだろうが、現代人は意味を、価値を目にみえる形で求めているように感じる。
学歴、年収、資格、地位、結婚、子どもの有無…誰かからの評価がないと不安になる。
そして、時に自分自身を傷つける材料にしたりもするし、自分の生きる意味や自分の価値を見いだせなくなることがよくある。
でも、落ち込んだ時に、おばあちゃんの暮らしに入り込むと、
「生活を営んでいる」
淡々と、お料理をして、季節の仕事を楽しんで、少しお買い物もして。
そこに価値や意味は必要がないし、評価もない。
今でこそ、丁寧な暮らしとかよく言われているし、私もそんなyoutubeのチャンネルが好きでよく見ているけれど。
きっと、それは意味や価値を問われる社会から、家の中に帰ってきたときに「生活を営む」という、それそのものに価値や意味を見出さずに過ごす姿に立ち返ることを自然と求めているからなのかもしれない。
すごいね、おばあちゃん!一周回って新しいってやつだね!!
「お勝手仕事をしてると元気が出るのよ」
おばあちゃん、1人で住んでいるのによく料理とかできるよね、私なら適当に済ませてしまいそう。すごいよね、と話したらこう返ってきた。
いや、どんな境地?とか思ってしまうのだけれど。(笑)
ごはん作るの、申し訳ないけど嫌々です。
でも、インスタントとか外食が続いたりすると、やっぱり胃が重たくなったり、吹き出物や口内炎ができたり、割と体調に出てきてしまうので、基本は自炊をする。
でも、自分で作ったごはんを食べていると元気が出てくるし、季節の食べ物を美味しく調理したいなぁと思ったり、それを家族に食べさせてあげたいなぁと思ったり。
料理をする余裕が持てる時は、料理をしている自分の方が好きだ。
お勝手仕事が誰かの元気や健康につながればとても幸せだなぁと思う。
まだお勝手仕事はやはり疲れるのだけれど笑、
私がおばあちゃんになるまで生きていれば、少し元気がないときもお勝手でお料理をしている方が元気が出るのよ、なんて言えるようになるのかな。
なるといいなぁ。
子ども、孫の幸せを願うこと
いまだにお小遣いくれるんですよ…
おばあちゃん、私もう30も越えたいい歳の社会人よ…
私が小学生の頃は1ヶ月くらい、夏休みにおばあちゃんの家で過ごしていた。
おばあちゃんが作ってくれるご飯のお供や、庭で採れたニラで作る卵焼き(ニラの風味が強すぎなくて絶妙に美味しい)、ただボイルしただけなはずのウインナー、紫蘇の実の佃煮。どれをとっても最高に美味しくて、ご飯が何杯でも入ってしまう。
マメにお掃除されたお部屋で、干してくれた気持ちの良いお布団で過ごすのがとても幸せだった。
でも孫が何人か来て、過ごす夏休みはどれだけ大変だったことだろうか。
私なんて子ども2人の面倒だけでも白目むいてるってのに…
それもイライラせず、幸せってこんな感じだ〜って思わせてくれる環境を作ってくれたおばあちゃんはすごいと思う。
両親が迎えにきて、帰るときはいつも泣いていた。
小さい頃は寂しくて。大きくなってからは、癌を患ったおじいちゃんと会うのがこれで最後かもしれないと思って。
今回も、バイバイする時に、次はいつ会えるのかな、最後…ではないよね?と思いながら、おばあちゃんは、
「おばあちゃんは孫達の幸せを願っているからね、身体大事にね。」
いや、もうこっちのセリフですよ!!
でも、きっとおばあちゃんの本心なのだと思う。
老いて身体が不自由になっても、おじいちゃんがいなくて寂しいことも、それはそれとしながら、幸せを願ってくれる人がいるというのはなんと幸せなことなのだろう。
私も、生きて、死ぬまで生きて、みんなの幸せを願っていられたらいいなぁ。
おばあちゃんの生き様は生きていくために立ち返る場所、原点ではなく、目指す場所でもあるのかもしれない。
余談
「おばあちゃんも、元気でね、長生きしてね。」
と、ウルウルしていたら、
「ほどほどにするね!!」
…そこでその返しか〜!!身体は老いても、返しのキレは健在だなぁ。
また、元気で会おうね。
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