5月21日 6月12日clubhouse用 伊藤若冲
代表作品
若冲の作品ではないけれど、、、
若冲にまつわる言葉から
若冲を語る言葉(1歳~30歳)1716~1746
青物市場の問屋「桝屋」の長男幼いころから学問を好まず、字もうまくはかけず、およそ技芸百般の一つも身につけたものはなかった。音曲や女性とのつきあい、酒の宴など一般の人が楽しむことにもまったく興味がない。大典筆「藤景和が画(え)の記」より
若冲ゆかりの言葉(32歳~42歳)1747~1757
完成したものはどこかかけているように見えるが、それを用いても壊れることはない。足りているものは空虚なように見えるがそれを用いれば尽きることがない。【老子「45章より」】
若冲が自作に記した言葉
「花・鳥・草・虫にはそれぞれ固有の生気がある。画家はその「真」をよく認識してはじめて画を描くものである。しかし九種に彩られているという鳳凰の羽は、実際に見ることが出来ないのだから、原画の筆意に倣ってその形を描くことはやむを得ない。「旭日鳳凰図自賛」
若冲の言葉(43歳~51歳)1758~1766
動植綵絵のころ
「私は常日頃絵画に心力を尽くし、常にすぐれた花木を描き、鳥や虫の形状を書き尽くそうと望んでいます。題材を多く集め、一家の技となすに至りました。また。かつて張思恭(ちょうしきょう)の描く釈迦文殊普賢像を見たところ巧妙無比なのに感心し、模倣したいと思いました。そしてついに三尊三幅を移し、動植綵絵二十四幅を作ったのです。世間の評判を得ようといった軽薄な志でしたことではありません。すべて相国寺に喜捨し、寺の荘厳具(しょうげんぐ)の助けとなって永久に伝わればと存じます。私自身もなきがらをこの地に埋めたいと願い、謹んでいささかの費用を投じ。香火(こうか)の縁を結びたいと思います。ともにお納めくださいますよう伏してのぞみます。」
若冲の絵を語る言葉
近頃はじめて(動植綵絵などの)十五幅を見ることが出来た。広げればそれぞれが茅葺の質素な家を照らす。葵、梅、紅の芍薬。孔雀、鸚鵡、紫の鴛鴦(おしどり)雀、群鶏、また絶妙。鳥は歌うよう。花は笑うよう。【川井桂山(けいざん)「丹青歌(たんせいのうた)若冲山人に寄(よ)す」より】
若冲の言葉
「いまの画というものは、みな手本をもとに描くばかりで、いまだ物を描けたものを見たことがない。そして技術によって売れることばかりを求めていて、
技術以上に進むことができたものがない。
自分が人と違っているのはこの点だけなのだ。(大典筆「藤景和が画(え)の記」より若冲の言葉
若冲を語る言葉
彼が朝写し出す天地万物の真の姿。世の絵描きたちはそれを見て絵筆を投げ出し、みなしりごみ。貴族や権力者は争って画を求め、白い絵絹がそこをついて死装束用の絹もなくなるほど。【川井桂山(けいざん)「丹青歌(たんせいのうた)若冲山人に寄(よ)す」より】
隠者がござる。名は若冲。胸の内は淡々と青空のよう。若くして禅に入り浮世を逃れ、生死の境地を離れたが、広い心で俗世に戻って市井に住まう。【川井桂山(けいざん)「丹青歌(たんせいのうた)若冲山人に寄す」より】
若冲を語る言葉(73歳~85歳)物好きの晩年
いま稲荷街道に隠居して五百羅漢を建立している。絵一枚を米一斗と定め自分が描いた下絵によって後ろの山中に羅漢を一体ずつ立てているのだ。これにちなんで「米斗翁(べいとおう)」と落款を書いている。【平賀蕉斎(しょうさい)「蕉斎筆記」より】
東洋美術 もっと知りたい伊藤若冲 生涯と作品より
学んだ作品たち
商人から画家へ 1歳(1716)~31歳
生まれ・・・京都 錦高倉青物市場の問屋「桝屋」の長男として
初期作品 32歳~42歳
動植綵絵・水墨画・版画 43歳~72歳
晩年 73歳~85歳(1800)
clubhouse中のみ公開
出光美術館カタログより
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