芸術的価値が苦手だ
とある機会があり、「NFT」なるものに触れました。そこであらためて自認した感覚です。
・前提 私が「NFT」なるものに抱く認識
世界に唯一のデジタルデータである。
おそらく通常のデジタルデータ(たぶんパソコンの中に入っている「ナントカ.jpg」とか「カントカ.txt」とかいうアレコレのことを指しているのでしょう)は、「コピー」すると同じデータを作れるのでしょう。
一方、「NFT」なるものはそれができないそうです。なにかデータの中に仕組まれたナニカによって、見た目が同じでも「これはオリジナルのデータである」という証明ができるそうです。
それゆえ、オリジナルのデジタルデータを求めているのであろう市場が存在しています。
■んで、それがどうしたのよ?
いやあ、しっくり来ないなあと思いました。
早い話が、ルーブルにしまわれるレオナルドが描いた『モナ・リザ』と、私がその辺からダウンロードして印刷した1コピー10円の「『モナ・リザ』が描かれた紙っぺら」は別物だよ、という話ですよね? 別物なんですか?
あくまで私は、私こじんの感覚なんですが、レオナルドが描いた「『モナ・リザ』」と呼ばれる物体それ自体については価値を見いだしていないんです。おじさんが板っぺらをペタペタと汚したものを世界がありがたがっている。イワシの頭となにが違うのかと思っています。
ただ、誰かが『モナ・リザ』の実物をありがたがる理屈は分かるつもりではあります。たとえばレオナルド個人を崇敬する人間であれば、「ああ、これがレオナルドが触れた物体か! 私はいま、レオナルドと同じ(唯一の)ものを見ている!」と感動するのかもしれませんし、フランソワ1世のファンであれば、「確かにこれはフランソワが手にした品なのだ! そして私はその前に立っているのだ!」と泣き崩れるかもしれません。
でもこれって、まさしく「信心」に他ならないと私は思うのです。レオナルドマニアの見る『モナ・リザ』オリジナルとフランソワ1世マニアが見る『モナ・リザ』オリジナルは、果たして同じものなのでしょうか? いや、もちろん同じ物体には違いないのですが……。
■価値はどこから来るの?
まずルーブル美術館は国営ですから、少なくとも国家フランスはルーブルにしまわれているアレコレに価値を見いだしているのでしょう。そして国民の多くは(かの国が民主共和政を敷く以上は)それに大枠の同意をしているはずです。さらには世界の市民の多くも同様に考えていることでしょう(これは私の偏見ではありますが、まあ間違ってはいないのでは?)。
でも、私の認識ベースの話をするのであれば、彼らの資源は「イワシの頭」を後生だいじに守るために使われている。これを許すかといえば、まあ認めないと考える人間が多数派になるのではないでしょうか。
※もちろん、私は人間に普遍の精神性について話しているつもりはありません。事実、芸術品にトマトを投げつけて社会を批判する方々もいらっしゃいますし、逆に赤の他人の「イワシの頭」を守るために戦う、信仰の自由の守護者もいることでしょう。私はどちらにも寄り添えるつもりです。
つまり、人々は「イワシの頭」にナニガシカの価値を見いだしているはずなのです。レオナルドマニアでなくとも、フランソワ1世マニアでなくとも理解できる、およそ普遍的な価値を。
■そして私は
私に理解できるのはここまででした。私には『モナ・リザ』オリジナルは「イワシの頭」にしか見えません。『モナ・リザ』を見たければ、わざわざルーブルに行かずとも、書店で画集を探すまでもなく、携帯電話で検索すれば見ることができます。
たとえば私が愛するAさんが『モナ・リザ』を私のために模写してくれたとしましょう。私はレオナルドの『モナ・リザ』よりもAさんの『モナ・リザ』を選ぶでしょう。それは私にとり唯一の『モナ・リザ』、大好きなAさんからいただいた『モナ・リザ』なのですから、どこの馬の骨とも分からないヴィンチ村のレオナルドのものよりよほど大切です。
つまり私は「唯一性」の普遍性を信じられないのです。大好きなAさんから送られたデータとそれをコピーしたデータは別物です。たとえ内部的にまったく同じものだったとしても、私の体験としては別物なのです。yyyy年mm月dd日に大好きなAさんからデータをいただいた体験、あるいは思い出それ自体に価値があり、そしてその価値は私こじんに紐づいているわけですから、その価値を他者が理解できるはずはないのです。
■して、NFT、そして私は
NFTは「複製可能だったデジタルデータに唯一性を付与する試み」であったわけです(少なくとも私の理解においては)。世界に無数の「『モナ・リザ』.jpg」が溢れかえる中で、レオナルド産のオリジナルの「『モナ・リザ』.jpg」を手にすることができるようになる。
ですが前述のとおり、そのデータがオリジナルであることに私は価値を見いだせません。たとえ複製品であっても、「大好きなAさんに貰った」だとか「思い出の誕生日プレゼント」だとか「愛する肉親の遺品」だとか、それだけで私には唯一の価値を見いだせます。
だから私はNFTを楽しめなかった。それだけではなく、芸術品も分からないし、資本主義に馴染むこともできなかった。少なくとも現時点では。
孤独で自己完結したイワシの頭教団の教祖にしてただひとりの信者として生きていくしかないのだと実感させられた、そんな経験でした。
※おまけ
とりあえず一番高そうな気がする『モナ・リザ』を例にしましたが、もちろん社会的に高値を付けられているものならなんでもいいです。
ルーブルの収蔵品でいうなら、私は『皇帝ナポレオン1世の戴冠式と皇妃ジョセフィーヌの戴冠』が好きです。笑えるので。
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