木洩れ陽と影
少し前の、気持ちのこと
ふと「もっとよい景色が観たいのです」と思ってしまったのだ。
その気持ちはただ、或る春の日に2階からストンと落ちて来たように。
自分の中で辿り着こうと、信じようと
片足を突っ込んでしまい
バランスを崩したのだ。
格好悪いなぁ。
陽だまりのように、素朴で包み込むような存在
自然の素晴らしさを享受できる環境と受容体を持ち合わせること
そういうことが“良い”のだと、そういう人やお店にならなくてはと、一時期思い込んでしまった。
あらゆる素敵な情報を見過ぎでしまい、情けなくも
自分の感性にさえ疑いを抱き、代々都会生まれの自分の血さえ穢らわしいような気がして
いたたまれない気持ちで過ごした時期があった。
“素晴らしいこと”を気軽に目の当たりにできることはとても前向きで良いことだけれど、そういった憧れを浴び続けることは、自分にはとても体力が必要なことだと分かった。
そんな時の、ちいさな出来事
偶然なのだろうけれど、本来の大変しょうもなく矮小な自分が「あぁ、このお店好きだなぁ」と思える珈琲屋の方々が、立て続けに働いている店に来店された。
お話をするような間柄でもないので声はかけず、静かに珈琲を愉しんでいただいたけれど。
その好きなお店は
気持ちを上向きにしてくれるでもなく、ただ粛々と寄り添う空気で包んでくれる。
しょうもない自分がありのまま、どんな気持ちのときも身を置ける貴重なお店なのだ。
お店をされている“人”も
私の知る限りでは、「素晴らしさ」みたいなものを押し付けるでもなく
大きな師の存在や自らの足跡に寄り掛からず、しっかりとご自身の価値観で今の自己を生きているような
憧れる生き方をされている方々。
私はほんとうは
都会の混沌が好きで
文学や言葉が好きで
闇を愛する。
とてもとても影的であり、尖っていてイビツな中身の持ち主だ。
こんな私に、誰かに元気になってもらう事なんて、きっと出来ない。
そんな大きく明るい力は持ち合わせていない
ならば
「あなたはあなたが嫌いなままでも、私はあなたのことが好きよ」と
そんな気持ちが伝わるような生き方を、仕事をしていきたい。
そしてそれは今自分が一番言われたいことなのかもしれない。
そんなことにハッと気づかせていただき、失いかけた弱々しくも核となる何かが家出から戻ってきたような、とても個人的で内面的だけれど、大切な出来事となった。
自分に無い眩しいものにばかり憧れ、今の自分に出来ることを見失っては意味がない。
今はきちんと自分の足で、自分が良いと感じる景色の見える場所まで行きたいと思っている。
木洩れ陽が美しいと感じるときは、同時に樹の下の影も美しい。
無理に陽を見ようと(見せようと)としなくていいのかもしれない。