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荀子と宥坐の器
今回は、『荀子』宥坐篇の(中の一部の)話である(『荀子』なのに何故か孔子達が出てくる)。
魯の桓公の廟に拝観した時、傾いた器があった。係役人に聞くと、「それは坐右の戒め🤛器でしょう」との事。
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孔子曰く、「聞いた事がある。空の時は傾き、半分くらい(水が)入った時はまっすぐになり、満ちた時は、ひっくりかえるというものだ、と」。
それで、弟子に水を汲んで来させ、宥坐の器に入れると、果たして
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そうなったので、孔子が「満ちた状態でひっくりかえらないものがあろうか」と嘆息した。
子路が「あえてお訊きしますが、満ちた状態を維持できる方法がありますか?」と質問すると、孔子曰く、「頭の良さがあれば愚かなフリをして守り、功績があれば人に譲り…して、最高の状態の時は全て出しきらない」。
要するに"控えめにしろ"という事かな?荀子の時代の処世術かも知れない。
荀子(荀況)は儒家だけど、「人の本性は"悪"である」と性悪説を唱えたので、儒家本流?からはちょっとケムたがられて❓、孟子や孔子の孫や曾子と一緒に孔子廟に祀って貰えない、ある意味気の毒な思想家である。
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しかし、『荀子』性悪篇を読むと、その"悪"とは、社会的な悪ではなくて、今風?に言えば"自己チュー"みたいなニュアンスである。躾のされてない幼子の様な存在を思い浮かべると、分かり易いかな? なので、荀子さんはもう少し理解されてもいいような気がする熊吉🐻であった。
🐻
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