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濫觴(らんしょう)

 濫觴というのは、水源のことである。転じて、ものごとのはじまりをいう。
 濫は「氾濫」というように、「あふれる」を意味する。
 觴はサカズキである。
 サカズキに溢れるていどの水といえば、たいした量ではない。だが、どんな大きな河も、その水源は、サカズキに溢れるていどの、ちょろちょろとした水なのだ。
 『荀子』や『孔子家語』に、孔子が子路を諌めた物語がのっている。(中略)
 あるとき、子路は「盛服」して孔子に会った。盛服というのは、ギンギラギンに着飾ることで、遊侠の気風をもつ子路のやりそうなことである。😁

40年くらい前かな……?😅

 孔子はそれが気に入らなかったのはいうまでもない。
➖➖由(子路の名)よ、是の裾裾(きょきょ)たるは何ぞや。
 孔子は眉をしかめてそう言った。
 裾(きょ)とは、スソ、ソデ、エリ、フトコロなど、衣服の飾るべき部分のことで、「裾裾」というのは、飾り立てた服装の形容である。
➖➖何じゃい、そのケバケバしい服装は。
と、叱りつけたのだ。そして、ことばを続けた。
➖➖江(揚子江)は岷(びん)山にから流れ出ているが、そのはじまりの水源は、サカズキに溢れるていどの水しかないのである。ところが、下流の渡し場になると、ひろびろとして何艘も舟をならべて風を避けなければ渡れないほどになる。下流では水量が多いので、人びとは警戒するのじゃ。いま、お前は派手に着飾って得意そうにしているが、それでは他人が警戒して、誰もお前を諌めようとはしないだろう。……
 子路はそれを聞いて、走り去り、質素な服に改めて、また入ってきた。それで孔子も機嫌を直したというのである。

それならOK🙆‍♂️…みたいな❓😁

『弥縫録』(陳舜臣・著)より。

 あまり偉そーにしてると、注意してくれる人がいなくなる…という、荀子の(孔子と子路に仮託した)教えである😁。
 そして、注意してくれる人がいなくなったら、大抵その人は終わりである……というのが、数々の歴史小説をよんできた熊吉🐻の感想である。

                  🐻

      


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