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「告発 シベリア抑留」を読んで ②

「告発 シベリア抑留」を読んで ①(以下、①とする。)という記事を書く中で、重要な内容をもらさず盛り込もうとするとかなり長文になってしまうので、①ではまずは松本氏の主張の全体像を俯瞰できるように心がけてみた。 そして①で書き切れなかった内容をこちらに追加することにした。    また、こちらの記事には松本氏のもう一冊の著書である「真相 シベリア抑留」の内容から得た 情報についての考察も付け加えた。(この2冊には重複した内容が多いのでそのようにすることにした。)            お時間があれば、①読後にこちらをお読みいただければ幸いです。


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        発行:碧天舎(2004年)   著者:松本 宏

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       発行:碧天舎(2005年)   著者:松本 宏


ヤルタ会談

1945年2月4日~11日 (8日間)、ローズベルト、チャーチル、スターリンが   出席してクリミア半島の保養地ヤルタYaltaで開かれた会談。ドイツに対する戦後処理として,米・英・仏・ソ連4ヵ国による共同管理および戦犯処罰と非武装化,国際連合の設立,ソ連の対日参戦と千島・南樺太の奪回,カーゾン線を基礎としたポーランド国境の確定など,戦後の国際秩序の大枠がきめられた。                                      (百科事典マイペデイアより)


松本氏はシベリア抑留者の立場を考える上で、ヤルタ会談での協議内容を とても重要視している。そして、このヤルタ会談こそ、シベリア抑留という悲劇へと繋がる重要な要素となっている。                        そもそもヤルタ会談はWW2後の世界の分割(ヤルタ体制)に繋がった非常に重要な会談だ。そしてそれは日ソ(露)関係において避けて通れない北方領土問題の原点でもあるのだ。                       にもかかわらず、終戦後40年以上経過した1986年時点でもその全貌があまり詳らかではなく、事実があきらかにされてこなかった。その為、客観的な事実認識ができない状態が続き、日ソ(露)間の関係改善の足枷にもなってきた。そういう状況を危惧した人々の尽力で、日本での出版の運びとなったのが『ヤルタ会談=世界の分割』アルチュール・コント著、山口俊章訳 サイマル出版という本だ。 (この本の内容をもとに「ヤルタ会談」については、 あらためて別の記事に纏めたいと思っている。)

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さて、そのヤルタ会談の内容のなかで、松本氏はどの部分に注目しているのだろうか?                             ヤルタ会談の結果としては、以下の3つの協定が成立した。       1:1945年2月11日付けコミュニケ                2:ソ連の対日参戦に関する協定                  3:クリミア会談の議事に関する議定書                そして、松本氏は、このうちの3のなかにある                 Ⅴ.賠償                               2現物賠償は次の三つの方式によってドイツから取り立てられる。              (e)ドイツの労働力の使用                       に注目している。                          それは、ヤルタ会談の時点で連合国側がドイツの労働力による賠償を取り決めていたことに従い、ドイツと同じように敗戦した日本も労働賠償を負わされるという予測が成り立つということであり、シベリアに移送され強制労働に従事させられた人々はその労働賠償を担わされた人々だったということになるわけだ。そしてその労働賠償が実行に移された段階で、連合国に降伏した64万人もの関東軍将兵等はシベリアに移送され抑留された。ここで重要なのは、日本はあくまでも連合国に降伏したのであって、ソ連はその傘下のひとつの国に過ぎないということであり、ソ連が勝手に独断でシベリアへの強制移送や強制労働を決定して実行したのでは無いと言えるということだ。

それでは、ドイツの労働賠償とはどのようなものだったのだろうか?   松本氏は、2002年3月20日の小沢和秋衆議院議員の議会での発言(下記)を取り上げている。                              「我が国がシベリア抑留者に対して如何に冷たいかは同じ敗戦国のドイツと比較してみればよくわかる。ドイツでソ連に抑留された兵士は239万人、日本の64万人に比べて4倍もいた。しかも、戦後、東西に分割されるという困難な状況の中で、抑留期間に応じた月単位の補償金や釈放手当て等を支払い、その上抑留期間中の家族生活費の支給・就職・住宅・社会保障などの援護措置を講じている。」                      そしてさらに松本氏は、「ドイツ兵は日本人に見られた民主運動にウロチョロすることもなく立派な態度だったという。即ち『俺達の力で連合国に賠償し且つその恩恵をソ連人に与えると言う確信』があったのではないだろうか。更にドイツの国会議員は足しげく来訪し、彼等の帰還の時には首相が議員とともにやって来てドイツ兵諸共一斉に引揚げたと言う。これに対し我が抑留者の方は如何であっただろうか。民主運動を行った男あり、横を向いている男あり、又抑留期間中に我が国から何の連絡もなく来訪した人は皆無で、国から捨てられた集団の如くであった。」と述べている。                 このように同じ労働賠償を担わされたドイツと日本だがその労働賠償に対する国の姿勢が全く違い、天と地ほどの差がある。①で述べたように、日本政府はソ連から労働に適した要員を選んで提供するよう指示されたのにそれを怠り、極寒で食料不足に陥っていた苛酷な環境へと、苛酷な労働に不向きな人々までが送られてしまい、その結果、死者は6万人にも及んでしまったのだ。適正な人員選択という配慮があれば、ここまでの悲劇は生じなかったのだ。日本政府は許されざる失態をしたあげく、その責任をいっさいとろうとせず、国のために命がけで労働奉仕した人々に対して何の労いの言葉も、 賠償もしないという冷酷な態度をとり続けているのだ。


最高裁判決内容の問題点

松本氏は、平成11年4月1日に「シベリア抑留にあたり国が行ったことに対し謝罪広告をなすと共損害賠償の印として1人300万円を請求する」として大阪地裁に提訴、続いて大阪高裁に上告したが敗訴が続き、最終的に最高裁にまで持ち込んだ。しかし最高裁判決でも敗訴となる。       松本氏はその判決内容について当然納得できずにいる。そして実はそれら 一連の裁判の敗訴は、平成9年3月9日に下された全抑協(一般財団法人全国強制抑留者協会)が起こした裁判への最高裁判決を踏襲していることが根底にある。その判決の中の事件認識自体が誤認であるために、実際にあった事実と最高裁の認識の間に食い違いを生み、結果的に国の責任を回避するような判決結果になっていると確信しているのだ。簡単に言えばこれまで述べてきたように、国はその悲劇を引き起こした大きな責任を負っているにも拘わらず、いっさいそれを認めずに一方的にソ連の悪行による悲劇だと決めつけて責任逃れしているということこそが大問題なのだ。下記に根本的な誤認を示す。

平成12年12月1日 大阪地裁判決                     (2) 事件の認識 :原告らが第二次世界大戦後シベリアの収容所に捕虜として抑留され、強制労働を課されたことは前記認定の通りであり、極寒の収容所において劣悪な環境の中、原告らを含む多数の軍人・軍属が日々苛酷な労働を強いられ肉体的にも、精神的にも筆舌に尽くし難い辛苦を味わったことは証拠からも明らかなところであって、当裁判所としても誠に痛惜の念にたえない。

松本氏が、再三、主張しているように、シベリア抑留者は国際法上の捕虜ではない。マッカーサー元帥が率いる連合軍から天皇陛下を通して命令が下された為に降伏し帰国を待つために収容所に存在していた人々だ。     ソ連は連合国の傘下の戦勝国の一つの国として、正当に配分された労働賠償を受け取り、その労働者を周到に準備して粛々と各地の労働の地へと移送しただけだ。また①でも紹介したように、当時のソ連は、WW2で1600万人以上(2000万人あまりとの説もある)の死者を出し、徹底的に荒れ果てて食料も足りず飢餓状態だった。ドイツの労働賠償の様子から考えても、日本人抑留者にだけ食料を僅かしか与えなかったり、過剰に苛酷な労働を与え続けたとは考えられない。ソ連は戦勝国とは言いながら荒れ果てた国土の復興に全力を尽くさなければならない状態だったのだから。


さらに言えば

松本氏が両著書の中で繰り返し主張していることのなかに、連合国に降伏するように命令が出された段階でどさくさに紛れて逃亡してしまった軍人・軍属が数多く居たということがある。そして所謂「要領よく逃亡した」軍人・軍属の存在について「国の命令に従った者が不幸な目に遭い、それに従わずうまく立ち回った者」として認識しており「国の命令に従っていたらシベリアにて働かされ、帰ってみれば芥のように扱われ、うまく先に帰った者はよい職にありつき、または良い仕事を得てのうのうと暮らしている」とまで言っている。「勿論あの敗戦の時は収容所に入らずに逃走せんとすればできたしー関東軍将兵87万7000人の内シベリア抑留者60万人だから、その差約27万余即ち約3分の1が逃走したと思うー収容所から逃げだそうとすれば、そのように出来たし、又列車に乗った後でも満州内である程度の集団ならば逃走し得た筈だ」と。

そして、最後に、この事実は非常に重要だと思われるが、シベリア抑留での艱難辛苦については、ソ連からの何らかの仕打ちというより、日本人同志の間での残酷な虐め、虐待などに起因する死者がかなり多く存在しただろうということだ。これについて松本氏は「一度軍隊に入れば最下級の二等兵として徹底的に絞られた。そのやられ方は、かの五味川純平の『人間の条件』に書かれている通りであり、40男が20歳くらいの息子ぐらいの奴に徹底的に絞られ・・・」と述べている。そして、松本氏が配属されたソ連極東のチタにある収容所(約1000人収容)では、死者が2名出たようだが、両者ともそのような軍隊独特の虐めに耐えかねて精神を病み自殺したと言う。      この事実をどのように解釈するべきか。                最高裁判決の事件認識にあるようにシベリア抑留者が全てソ連の冷酷無慈悲な強制労働で命を落としたといえるのか?   


私は、是非とも次に『人間の条件』を読んでみたいと思っている。                   









日本軍の虐め

命令に従わなかった人のずるさ


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