夏の恒例行事。
ここ数年、個人的に夏の恒例行事にしていることがある。
かき氷を食べながら、よしもとばななさんの『海のふた』を読むことだ。
『海のふた』との出会いはたぶん、中学校受験の時。
国語の読解問題として物語の一部が抜粋されているのを読んだ。
なんて透明感のある物語だろう。
子ども心にそう思った。
いったいその時この物語のどこを読んで心を掴まれたのか、残念ながら覚えていない。
たしかなことはそうたたないうちに書店で文庫本を探し当て、じっくりと噛み締めるように読んだということだ。
『海のふた』は小さなかき氷屋さんの話だ。
正確には、小さなかき氷屋を営む女性と、彼女が出会う“少女”とのひと夏の話。
私は主人公のまりちゃんが、彼女自身のこだわりを集めに集めたかき氷屋の描写が大好きだ。
作中まりちゃんは自分のことを「かき氷が好き、というのが唯一自分の中で自信を持てること」であると語ってかき氷屋を始めるに至ったわけだが、それを貫いて自分一人で生きていける芯の強さは、物語に出てくる小豆島の海のようにきらきらして見えた。
まりちゃんが「いいな」と思ったものが丁寧に磨かれ、レイアウトされている様子は、お店の空間としても人間の生き方としても強く憧れる。
それはちょうど“少女”はじめちゃんが、まりちゃんと、彼女のお店を好きだと評した気持ちに似ているかもしれない。
一方のはじめちゃんは、心に大きな傷を抱えてまりちゃんの住む街にやって来た。
ただ、まりちゃんと出会って彼女が何か変わったのかといわれるとそうではなくて、まりちゃんと過ごす日々の中で少しずつ本来の自分を取り戻していく。
大切なものを失って、大人の汚いところをたくさん見て、傷ついて悲しんだ果てに殻にこもってしまったような彼女だけれど、来て早々「明日からお店を手伝う」と申し出るあたりはじめちゃんもなかなか芯の強い女の子なのだ。
まりちゃんとタイプは違うけれど、自分にとって大切なことをよくわかっている。
そして、自分の感じたことを飾らず言葉にできる素直さも持っている。
私はそんなはじめちゃんのしなやかさもとても好きだ。
この作品が持つ独特の透明感は、まりちゃんとはじめちゃん、自分の心にひたむきなふたりの女の子の象徴だと思う。
それなりの歳で、この世の中の不条理さや汚いところもある程度見てきたはずなのに、それでもあまりにも純粋なふたりの心を、夏の陽射しと、海のひかりと、潮の香りと、かき氷シロップの甘酸っぱさと、琉球グラスのきらめきと、砂浜に落ちているサンゴと、波の音が彩っている。
そして夜の海辺をドライブする車中で流れる『海のふた』の音楽も…。
思わずため息が出る。
なんてきれい。
結局のところこのあたりは"よしもとばななの作風"というものなのかもしれないけれど、本という文字情報しかない媒体からここまでの映像というか、風景を描き出せるのが本当にすごい。
言葉のひとつひとつからにおいや音までも感じることができる。
行ったことも、見たこともない景色が本から広がっていく。
その感覚が好きだから私は読書が好きだし、夏が来るたびに『海のふた』片手にかき氷屋に出かけていくのだ。
まだまだ暑い日が続くけれど、たしかに秋の気配を感じる今日この頃。
心の故郷に帰るかのような夏の恒例行事を終えて、私は最後少し溶けてしまったかき氷水を飲み干した。
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