見出し画像

2024.02.20 23:31

知らぬ間に2月の中旬まですぎていることに気づいたのが三日ほど前。今月が終わると一年の6分の1すぎることになるのかと、当たり前のことを毎年思い起こしている。

ちらほらと梅なのか、桃なのかが咲いていて、ダウンだと少し汗ばんでしまうくらいあったかくなってきた。相変わらず家は寒いが毎日寝る前の日課だった湯たんぽにお湯を入れることが少なくなってきた。

庭の椿は相変わらず咲き乱れていて初めて咲いた一輪の嬉しさを忘れそうになっている。母に連絡したらうちも咲いたと写真を添えて送ってくる。家にはない白い侘助が美しく、彼女にも見せたら次の家が決まったらこの椿を植えたいねという。

祖父は生前に囲碁と盆栽好きでいろんな植物を育てていた。その中でも赤い椿の侘助が好きでうちの家でもその影響か庭にたくさんの椿が植えられていた。庭に咲いている椿を見るたびに自分にとってはある意味特別な花になっているが、祖母は祖父が亡くなった時に棺桶にその季節にしては早く咲いていた赤い侘助を一輪入れたので、その花が咲くたびに悲しい気持ちになるのであまり好きではなくなったということを母から聞いたことはある。

最終的に祖父と燃えた一輪は祖父が横たわる部屋にそっと置かれていて、障子からでた淡い平面的な光に照らされ小さな花瓶に入っていた一輪の赤い侘助が偉く綺麗だったことを僕は今でもよく鮮明に覚えている。誰が祖父の胸に添えたのかは覚えていない。

先週電車に乗っていると友人がなくなった一周忌だと思い出し、またふわっと記憶が蘇って落ちていた。僕はあの日の日記をたまに読み返して自分を大切にしようと心に決めたことを時折思い出すようにしている。

葬儀の半年後に親族の方が個展をされてその個展に訪れた。会場にはiPadで映像も流していて彼はピアノも弾けて全くその才能を知らなかった僕はその優雅に動く彼の指を見ていた。

彼の絵は半抽象的な絵がほとんどだった。その中でも海遊館のマンボウがリアルに描かれている絵が数枚あった。海の生物だが泳ぐのが下手な生き物らしく(そのような文章をそこで読んだ記憶がある)何か彼にとって特別な気持ちになったテーマ?だったのではないかと想像している。

そのマンボウの中の一つの作品名が、自分の名前の漢字が書かれていて僕はなにか変な気持ちになった。多分彼にとって自分に当てた絵とかでは絶対にないと僕は言い切れるのだが(そもそもめちゃくちゃ仲良いわけでもないただのクラスメイトだった)、海遊館のマンボウの名前でもなく、なぜのその漢字を当てたのだろうと、いまでもふと考えることがある。入り口付近に親族の方が彼の絵をポストカードにしていて販売していたので、僕はその自分の名前の漢字と同じ絵のポストカードを購入した。持ち帰ってきて手紙などをまとめている箱にそっと入れて閉じた。

先週に彼女から話された内容が頭から離れない。ある種の資本主義のようなものから離脱して生きていこうとしている自分とは少し距離のある意見で、どう返答しようかと考えて、ただ答えの出ないことをずっと考えている。一人であれば自分の生きたいようにすればいいのだが、誰かとともに生きていくことを決めた僕は言葉を選んで話していた。まとまり切っていない言葉を出して誤解を生み出しそうなのであまりその日は対話にならなかった気がする。

仕事を辞めたら何をしようか、よく考えている。何ができるか単発バイトの内容とか見るけど体力系はなぁ〜とか言ってる時点でぬるいよな…結局効率的に稼ぐなら今の職から…とかいうと何も変わらない。

現実的な路線でいくのか、ちゃらんぽらんと生きていくのかわからないが、結婚するので流石に俺ちゃんとしようぜの路線でいきたい。彼女は幸せにしてもらう、あげる、の精神が嫌いなので僕はわざわざ冗談じみて、そういうことを言う。

彼女は僕をあてにしてない。僕も彼女をあてにしない。そんなことを考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?