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2023.12.31 03:45

センター街の所々に「迎春」と書いているPOPや、フラッグが立っているのが目に入ってきた。迎える春と書いて、迎春。
僕は、季節が過ぎる、季節が進む、などの感情があったが「迎える」という気持ちで今まで過ごしたことがあっただろうか、とふと歩きながら考えていた。

主体はあくまで季節ではなく、僕である。僕は季節を迎える立場であるのだ。そう解釈すると、もう少し背筋を伸ばして季節と向き合う必要がある気がした。

去年は庭に一輪しか咲かなかった椿がたくさん蕾をつけている。1年目は咲かず、2年目に1輪、3年目にはどれくらいだろう20は咲きそうに見える。石の上にも三年、のような地面に根を張り養分を吸い上げたくさん開花するためにはやはりこれくらいの時間が必要なのかなと教えてくれている気分になる。実家の横の大山さんの家の椿の実(種)から育てたもので、もともとはピンクの椿だったらしい。咲いた花の写真をを母に送ると、赤かったためにえらく驚いていた。しかし今年はほんのりとピンクに近い。それもまた不思議だ。

高校時代の友人たちが恒例の年末に家に来てくれて、ご飯を食べてもらったりした。下処理した牛すじを赤ワインとトマトで煮込んでコトコト3日ほど。ほぼ原型を留めない牛すじになったがやはり時間かける料理はおいしくなる。ポテトサラダ、生ハムチーズ、冬野菜のブロッコリーとか早めに出てきた菜の花とか子持ち高菜を焼いてバーニャカウダつけて食べたり、恒例の塩麹鶏ハム、締めにパスタ2回作ったり、モリモリ食べてはボードゲーム、を繰り返し会話を楽しんだ。

友人たちが終電ギリギリの電車に乗ってまたねと呼び合い帰っていく。長い付き合いということも、相まってとても心が満たされる感情になる。こうやって今もみんなと一緒にご飯たべれるの特別な時間だよなと考えながら帰宅していた。いい時間だった。

今年の中旬に無くした腕時計が帰ってきた。厳密には彼女からのクリスマスプレゼントだ。親から買ってもらったとても大切にしていた時計だったのだが散漫な生き方をしていたせいで、ある日からなくなって家中を3回ほどひっくり返したがどこからも見つかることはなかった。警察に届出もしたがまるっきり音沙汰がない。

同じものを2回もらうというのは人生で初めてだったのでなんとも言えない、うれしさより先にどうしても無くした自分への愚かさが先に来るが、自分が大切にしていたものを別の形でまた彼女が蘇らせてくれたことに深く感謝をしたい。僕はこの気持ちを大切にしないといけない。もう決して無くしてはいけない。

また一年が終わる。去年の今頃は忘年会だった気がする。目標を決めるのが目標というぬるいことを言った記憶がある。ぬるい目標だったが8割ほどは達成できた気がする。引き続き来年も目標をたてクリアしていきたい。こうやって目標を達成している自分で自己肯定感を上げていくしかない。

仕事のことを書くといつも同じテンションになるのであまりもう書かないほうがいい気がしている。

今年に書ききれなかった日記がちらほらあってそれをとった写真と織り交ぜてzineのようなものを作った。目標の一つにzineを作ると入れていたのでうまく目標同士が交わってよかった。

書ききれない日記はわざわざ載せるほどでもないが、その頃の気持ちとか記憶が薄れてしまっていて書ききれない状態でいた。このまま眠らせているのもなんか勿体無いなと思ったがこれも作品にすればいいや、という感情。こう言うふうにすればたぶん日記を書くことも、書ききれなくてもいいと言う感情が生まれて肩の力を抜いてかけるような気もする。

来年に籍を入れる準備をしている。婚姻届は内容が正しければ、どんなデザインでもいい。役所に行ってもらわなくてもいいし、なんならネットにあるものを拾ってコピーすればいい。なんかこんなんでいいのかと思いながらそうするのが正解かわからずに期限がすこしずつなくなっている。はよ用意しろ。

町に住んでいる友人たちに結婚の報告をした。言うタイミングを失いつつあれ?今日言えるのかなと思いつつも、ふわっと伝えて祝福の言葉をもらう。結婚の報告は嫌な顔をする人がいないのでいい。両親も家族ラインでなんか嬉しそうな雰囲気があって、節々の言葉にそれを感じたりしている。

今頃になり、年の瀬をなんとなく感じてきている。一年は早い。このままだと一瞬で人生も終わるな。

いつもそんなこと言っている。


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