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ネット社会だからこそ生まれた余白

アンプラグド・ダイアログ・キャンプ(in 芦ノ湖)に参加してきました。

これはネット(スマホ)も、カメラも、時計もない中で過ごそうという企画です。

私は職業柄もありますが、この数年でスマホかPCのどちらかを触っていることが日常になっており、その自分にとって普段と全く違う日常を経験することになります。

それ故に不安もありながらも、楽しみもありました。

集まった人たちとはまともに自己紹介もしなかったため、ニックネームしか知らなかったのですが、恐らくビジネスの世界では非常にすごい人たちなんだろうな。という朧げな気配だけを感じてスタートしました。

ネットという情報世界がないから参加者同士が思い思いに会話をし、読書をし、カードゲームをし、食事をし、外に散歩に行く

夕暮れも過ぎてくると山の中だからただ暗くなるばかりで、その後は1時間経ったのか2時間経ったのかもわからなくなる。

「何時に食事をすればいい?」

「何時に寝ればいい?」

こんな時に時計を見ればすぐに回答があるけれど、それがないから、今何時ごろだろう?という予測をみんながつけ始める。

みんなが様々な環境や経験からその時間をそれぞれ想定し、予測検討をする。

時計という情報がなくなると、こうも周りに自分たちに情報とヒントを与えてくれる存在が溢れているのだと気づき、そのヒントを掘り起こすことの面白さに気づきます。

そんな経験をわずか2日ですがこれを続けることで、普段からネットばかり見ている自分には面白くも違う視点を感じることができました。

現代は便利な情報やサービス、機器が多すぎて、そこにただ便利さを得たり、記録を委ねていただけでなく、考えること自体を委ねてしまったのかもしれません。

選択肢とは、どんな解像度でも表現できない程のグラデーションのように多彩にあるはずなのに、気づくと便利に最適化された少ない選択肢になってしまっており、しかもその選択肢から選んだことを、自分の自由な思考力や決定だと思い込んでしまっている。

それは決定においてだけでなく、記憶すること、創作すること、あたり(予測)をつけることまでを便利な何かに委ねていて、時に放棄している。

でも、その便利さによる放棄は現代の発展の中にあった成長や豊かさのひとつとして享受できるもので、そのことを単純に悪いことだと言いたいわけではありません。

自分が強く感じたのは、豊かになった事によって何かを放棄してしまっているという事に気づき、そこにあったはずの何かが抉り取られてぽっかりと空いた余白があり、その余白を埋めようとしたコトや方法が、人それぞれ違っていて、そこに強烈なまでの個性があり、その個性を積み上げたものがその人の魅力なのだと感じるところです。

例えば、旅先で感動的な景色に出会った時、「感じること」、「覚えること」、そして「詳細まで見ること」などができますが、ポケットから取り出したスマホで写真を撮ることで、それらの行動をしなくても良くなる。

またスマホを見れば思い出せる。

スマホを持っていなかった時と比べてこれらの考えることがぽっかりと空いてしまう。

でも、それはそれでよいと思うのです。

真に気づくべきはその放棄している部分を埋めたくてカメラや動画、言葉(文章・詩)という形で余白を埋めようとしている人がいるということです。

見渡す限りの自然、そしてキラキラ光る湖面、全身をまとってくるような風、足元にはパリパリと鳴る落ち葉

それらの光景を自分の持つあらゆる表現を使って芸術表現をしようとしてくれる人がいる。

余白を埋めようとする時に、魅力の原型があるのだと思ったのです。

今回のキャンプの中ではこれらの繰り返しが本当にすごくたくさんありました。

芸術分野だけでなく、人との関係性のことや、もっと現実的な情報の部分でも感じられました。

現代は便利になりすぎて余白の余地がほぼないように見えるけれど、実は便利になったからこそ、今までとは全く違った形で、思わぬ形で内部に余白が広がっていて、そこを埋めることへの価値は高まっているのだと感じます。

普段からそういうことの連続だとは思うのですが、スマホ、ネット、情報ありきの生活になってしまった自分にとってはなかなかに貴重な体験でした。

最近ネットを活用しているなと感じられている方は、ネットや各種機器から離れることをしてみてはいかがでしょうか。

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