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日常生活のなかでは、知識や教養は「役に立たない」のか?

代わり映えのしない日常生活の中で、そこから逃げ出したくても、人間が生き物として生きている以上、代わり映えのしない日常生活の中からは逃げ出すことはできないので、できれば、なるべくそこに横たわる困難を乗り越えたいと思うが人情だと思います。

では、そこに横たわる困難、そしてその困難が、(本来的には有意味であるはずの)日常生活を「代わり映えのしない」それへとミスリードさせてしまうわけですが、その困難にはいったい、どのようなそれが実在するのでしょうか。

いちいち取り上げるとキリがないのも事実ですが、その代表的なもののひとつ、ふたつには、例えば、

同じ失敗を繰り返してしまう

という悪性があるのではないかと思います。

大局的・世界史的時間軸でみれば、これは「歴史に学ばない」という現象と相通じるものですが、その原因とはいったい、何でしょうか。

それはいみじくも「歴史に学ばない」という言葉が象徴するように、学ぶ契機を喪失してしまうから「同じ失敗を繰り返してしまう」ではないかと思います。

インド中世のヴェーダーンタ哲学の思想家シャンカラは、その消息を次のように述べています。

すなわち、

知識のみが無知を滅することが出来る。行為は〔無知と〕矛盾しないから、〔無知を滅することが〕出来ない。無知を滅しなければ、貪欲と嫌悪を滅することは出来ないであろう。

シャンカラ(前田専学訳)『ウパデーシャ・サーハスリー』岩波文庫、1988年、18頁。

日常生活のなかでは、知識や教養は「役に立たない」などと蔑まれることが多々ありますが、「知識や教養といったものが役に立たない」という言説こそ誤った行為を導く無知そのものではないでしょうか。

生活のなかにこそ学ぶという契機が必要不可欠であると僕は考える理由もここにあります。


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氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。