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【133】奇蹟のブルックナー:レミ・バロー&オーバーエスターライヒ青少年交響楽団による交響曲第8番について 2023.4.16

1 出会い

私はこの演奏のCDに渋谷のタワーレコードで出会いました。タワレコのポップによると、このCDではレミ・バローという無名の若手指揮者(私はこの時レミ・バローという名前を全く知りませんでした。多分今でもかなりのクラシック通でも彼の名前を知り演奏を聴いたことのある人はあまりいないのではないでしょうか)がオーストリアの一地方であるリンツ周辺の平均年齢17歳の青少年によって構成した交響楽団を指揮し、なんと1時間43分という過去の巨匠達にも例を見ない長時間をかけた演奏をしているというのです。
 「止めておきなさいよ、無謀にも程があるだろう」
と思いませんか。 
 だって、17歳といったらまだ高校生ですよ。よくわからないけど学業している傍ら音楽をやっているだけのアマチュアですよね。私が高校の音楽教師で学校の音楽部が学園祭でブルックナーをやるとか言い出したら、「お前ら頭がおかしくなったのか。いい加減にしなさい、音楽をなめるんじゃない!」と全力で止めるでしょう。
 ブルックナーを知っている人ならわかると思うけど、交響曲第8番といったら彼の生涯における最大最高傑作ですよ。生易しいものじゃありません。それをしかもそんなにも遅いテンポで演奏しきれる訳がない。
 なのに、これが素晴らしい名演だったというのです。
 嘘だろうと思いませんか。
 演奏会はブルックナーの聖地ザンクトフロリアン大聖堂で行われ、2014年8月22日にライヴ収録されたこの「第8番」の演奏は、ある欧州の高名な批評家をして「若き演奏家たちは奏楽天使のごとくに音楽を作り、突如天国の扉が開いた思い・・・いま死んでも悔いはない、と思った」とまで言わしめた名演だというのです。
 「信じられない、いくらなんでも盛りすぎだろう。」私がCDを買ったのは、いったいこれは何なのかという好奇心のほかに、嘘を暴いてやる、誇大広告もいい加減にしろというようなある種義憤にかられたといった部分があったような気がします。
 最初に聴いたときも、「期待なんかしないよ、ほらみろ全然だめだろう」といってやるためだけに聴いたような気がします。いいところ「高校生にしてはやるじゃないか。」位だろうと思って聴き始めたのです。

 しかし、聴いてみてすぐに、そんな雑念は吹っ飛びました。
 ブルックナーがオルガニストとしてそこでオルガンを弾いていたという聖フロリアン大聖堂のホールは残響が10秒にも及ぶというのです。その残響を味方につけたオーケストラの演奏は豊かでみずみずしく、一つの旋律が生まれ、響き、余韻を残して消えていき、音が消える寸前に次の旋律が滑りこんで重なり合うその美しさは例えようもなく、極端に遅いテンポは、まるでスローモーション映画のように、ブルックナーの溜息がでるような美しい旋律を隅々まで余すところなく精妙に解き明かしてくれるのです。この遅いテンポはこの曲の全体像を表現するための必然のものだったのです。
 演奏の清浄で透明な音色はどこにも力みもなく指揮者の自己顕示欲も恣意的な所もなく、指揮者も若い楽員もブルックナーを愛し誇りに思いブルックナーの音楽を信じ切っていることが伝わってくるのです。
 特に第3楽章の旋律が静寂の中から生まれてきて消えていく美しさは筆舌に尽くせず、いま死んでも悔いはないという気持ちがわかる気がしてきます。

2 バローさんのブルックナー演奏の秘密

 1)バローさんはチェリビダッケに師事していた
 一聴すればわかることですが、バローさんの演奏は他の指揮者の演奏とは全く違います。しかしその何が違うのか今まで私はきちんと説明することができなかったのです。
 けれど、今回色々調べて発見したバローさん自身の言葉を聞いてその秘密のヒントが得られたような気がしました。
 バローさんは1977年にパリで生まれているので、今年46歳、もともとはヴァイオリニストが本業であり、今もウィーンフィルの一員として活躍している方ですが、2015年11月にウィーンフィルのメンバーとして来日した際にインタビューを受けブルックナーの演奏について語っていたのです。
 その記事  https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/10464  によると、バローさんはチェリビダッケに見いだされて指揮者になっていたのです。
「チェリビダッケが病気になってパリ16区のアパートメントを離れることができなかったことで、16歳から彼が亡くなるまでの3年間、週に2~3回レッスンを受けることができたのは幸運でした。初めは弦楽四重奏の演奏を見てもらっていました。あるとき、チェリビダッケが『お前は指揮をしたほうがいいよ』と。そのとき生まれて初めて指揮をしました」
そして、「私はチェリビダッケ以外の人から感化されたくありません。楽譜からのみすべてを解釈します」と述べているようにチェリビダッケに大きな影響を受けたようです。

2)チェリビダッケの影響
 バローさんが師事し唯一影響を受けることを許したというチェリビダッケは私にとっても思いの深い指揮者です。私がクラシックを、ブルックナーを聴き始めたころ、チェリビダッケが南ドイツ放送交響楽団(今のシュトゥットガルト放響)を振ったブルックナーの交響曲がNHKFMで何度か流れ、それをエアチェックして何度も繰り返し聴いたのです。特に4番の演奏はチェリビダッケがやりたい放題やっている胸のすくような快演、怪演で、今でも私の4番のベストは変わることなくこの演奏が守り続けているのです。
 この頃のチェリビダッケは普通にテンポも速くほんとうにすごい指揮をしていてかっこよくて大好きでした。
 知る人ぞ知るように昔は録音嫌いでほとんど演奏をレコード化する事がなく幻の指揮者と言われていたチェリビダッケでしたが後年は録音技術の進化もあってCDや動画も沢山残してくれるようになり、特にブルックナーについては大家とされ沢山の信者を獲得しています。
 チェリビダッケが年齢とともに極端に遅いテンポを取るようになっていったのはご存じの方も多いでしょう。
 1976年にシュトゥットガルトを振った8番は1時間20分だったのですが、 1994年4月23日、84歳で亡くなる2年前にミュンヘンフィルを振った演奏では1時間43分と23分も長くなっておりこれが私の知る限り8番の最長記録だったのです。

3)バローさんの演奏はチェリビダッケの劣化コピー? 
 バローさんの8番の演奏時間がチェリビダッケの演奏と全く同じ1時間43分であるという事実は果たして偶然の一致なのでしょうか?
 それともバローさんの指揮は師匠チェリビダッケのスタイルの劣化コピーだったのでしょうか?
 聴き比べれば直ちに解ることですが、二人の指揮は全く異なるものです。
 そして私は断然バローさんの指揮を推します。
 ここから先は私見であって、私の意見に賛成できないと感じる方も数多いと思いますし、異なってよいものだと思っています。こんな感じ方をする人もいるんだ位で読み流していただければ幸いです。
 チェリビダッケの晩年の演奏は遅すぎるのです。もはやそれは音楽が要求する速度ではなく非常に恣意的で不自然な遅さだと感じられてしまうのです。聴いていて神経が無理矢理引き延ばされてしまうようで気持ちが悪くなってしまい聴くに堪えなくなるのです。チェリビダッケがほんとうにこれが一番よいと思っているとは信じられないのです。
 1990年10月に東京サントリーホールでのライブがユーチューブで映像付きで見られこれが1時間42分なのですが、楽団員の演奏している表情を見てもチェリビダッケの顔色をうかがいながらおそるおそる演奏しているという風で生気がなく、チェリビダッケの指揮に心から共鳴して自発的な演奏をしているようにはとても見えないのです。
 ちなみに1976年のCDでの8番を改めて聴き直してみましたが、これが自然で颯爽としていてほんとうにかっこいいのです。
 あのチェリビダッケはどこへ行ってしまったと思ってしまうはわたしだけなのでしょうか?

3)ブルックナーは「時間と空間の概念を壊した」?  
 バローさんのインタビューの中で、私がええっ?と思ったのはブルックナーの音楽に関する次の言葉です。  インタビューアーの方(タワーレコード本社の板倉重雄さんという方)が、ブルックナーの作品の他の作曲家にない特長について問うと 「ブルックナーは音楽史上初めて時間と空間の概念を壊した作曲家だと思います。なぜなら、彼の音楽は時間的な長さをまったく感じさせないからです」と答えたというのです。
 意味わかりますか?
普通指揮者が例えば交響曲を演奏しようとするときどうするか、私は指揮などしたことありませんから想像に過ぎませんが、楽譜を読み込んで、曲全体の構成を把握し、どこをどのように演奏したらこの曲が最も美しくドラマチックに響くのかを考えて各部分のテンポや強弱を決めていくのではないかと思うのです。有能な指揮者というのは自分の中で確とした設計図つまり時間と空間の概念を構築することができ、それを楽団員と聴衆に明確に伝えられる技量を持った人なのではないでしょうか。こうした設計図を造ることができず、伝える技術も持たない指揮者ではその演奏は収集のつかないろくでもないものになるでしょう。指揮者に限らずピアニストだってポピュラー音楽だって優秀な音楽家は明確な設計図を胸に抱いているはずです。
 けれどブルックナーの音楽は違うのです。以前から思っていたことなのですが、ブルックナーの場合だけは、頭で作ったらダメなのです。
 私はブルックナーがほんとうに好きで、理想の演奏を数十年間、それこそ今年46歳のバローさんが生まれるはるか前から探求してきて、ユーチューブなどない時代でしたから、主要な交響曲の全集だけでも6種類持っていますし、シングルCDも多数集めていました。今もユーチューブで気になる演奏を見つけては聴きまくっているのですが、いつも思うのが「余計な演出はしないで」ということだったのです。どうもブルックナーの演奏は難しいらしく、色々自分らしい特徴を出そうと工夫をしているのは見えるのですが、それがうまくいっていない場合が多いのです。
 私に言わせるとブルックナーの演奏程ほど簡単なことはないと思うのです。音楽の世界の中に入り込んで音楽が望む通りにしてやればいいだけじゃないかと思うのですが、指揮者たちはどうしても自分の個性を出そうという欲望から逃れられないようなのです。  その結果、私が認める演奏はヨッフムさんやケンペさんヴァントさんといった誠実で真摯な演奏をする方々が最晩年のすでに地上の欲から離れたというような境地に至った時の演奏のみということになっていたのです。
 聴く方もそうで、わからない、難しいと言われる方も多いようなのですが、何も考えず、音楽の世界に身を委ねればよいだけだと思うのですが。

4)夕方の彷徨とバローさんの異端のブルックナー
 前述のようにバローさんの演奏はチェリビダッケとは異なるものでした。
 その音楽はチェリのみならずほかのどの指揮者とも異なるもので、解釈が異なるというレベルのものではなく、そのよって立つ思想自体が異なるのではないか、それはいっそ異端と呼ぶ方が正しいと言える性質のものなのかもしれないと思えるのです。
 その違いがどこにあるのか、長らくわたしはわからなかった。それが時間と空間の概念を壊したという言葉の中にヒントがあるかもしれないと感じたのです。  
 4月13日の夕方、私は箱根西麓にある我が家の周辺をイヤフォンでブルックナーを聴きながら行き先も決めずにウォーキングしていました。
 歩きながら私は時間と空間の概念を壊したという言葉の意味を考え続けていました。
 坂を降り坂を登り、林に入り林を抜け、歩き続けた果てに視界が開け、南に駿河湾が一望され、その右東方に愛鷹連山、その右側西北の方向には富士山がそびえていました。日が傾き夕日は少しずつ愛鷹連峰に向かって落ちていき、夕日に照らされて世界は赤く染まり始めていました。
 その時聴いていたのは第7交響曲でした。
 音楽は第1楽章の終わりから第2楽章に差し掛かっていました。
 7番の美しい旋律が永遠に続くかのような遅いテンポで流れてきていました。それは永遠に続いてほしいと思える至福の時間でした。そして、その聞こえているバローさんのブルックナーの中で流れる音楽と夕日に染まり始めた世界とがふとシンクロしているのを感じたのです。
 私はクリスチャンではありませんし、何か宗教を信じているわけではありません。けれどそれは神の恩寵とでもいうような不思議な瞬間でした。そして、その時、気付いたのです。ブルックナーの時間というのは大自然の時間、天界の時間、神の時間なのじゃないかということ、日が昇り日が沈む、潮が満ちまた引いていく、風がはるか彼方から吹き来たり吹き過ぎて、また次の風がやってくる。そうした大自然の呼吸のような始めも終わりもない悠久の時間、これがブルックナーの音楽の本質なのではないかということに。
「ブルックナーは音楽史上初めて時間と空間の概念を壊した作曲家だと思います。なぜなら、彼の音楽は時間的な長さをまったく感じさせないからです。」
 この通りなのです。この言葉がブルックナーの音楽の本質そのものをとらえているということがその時すっと胸に落ちたのです。
 同じ演奏時間同じテンポでありながら一瞬一瞬が充足し永遠につながっている、時の経過が意味を持たない音楽、このような音楽を人間が演出するなんてできようはずもなく、ただあるがままに演奏する以外にできることなどなかったのです。バローさんの演奏は限りなく自然であることにおいて限りなく個性的なのでした。
 私はザンクトフロリアンでブルックナーがオルガンを弾きながら作曲に耽っていたときにブルックナーの頭の中に鳴っていた音楽はまさにこれだったのではないかと思うのです。

 歩き回りながら見た風景を何点か載せます。

教会風の建物と夕日に照らされた八重桜
満開の八重桜
愛鷹連山に落ちる夕日によって雲間から光の柱
夕日に染まる富士の姿
ブルックナーは天界の音楽

3 死ぬ前に

 毎年8月にザンクトフロリアンでブルックナー音楽祭が開かれ、その目玉としてバローさんが毎年一曲ブルックナーの交響曲を演奏するのが恒例となっているようで、今までにすでに8曲が以下の順で演奏されそれぞれCD化されています。
  2013.8.23 交響曲第3番
  2014.8.22 交響曲第8番
  2015.8.21 交響曲第9番
  2016.8.19 交響曲第6番
  2017.8.18 交響曲第5番 
  2018.8.17 交響曲第7番
  2019.8.23 交響曲第2番
  2021.8.21 交響曲第4番
 個々の演奏についてはまた稿を改めて書いてみたいと思っています。

 死ぬ前に一度ザンクトフロリアンに行ってこの音楽祭でバローさんの演奏を聴きたいというのが私の願いなのですが、今一番気になっているのはブルックナーの交響曲で残すのはあとは1番のみだということなのです。
 その後はどうなるのでしょう?
 引き続きバローさんにもう一回りでも二回りでも演奏してほしいのですが、心配しながら注目しています。

* 補足

 ひとつだけ補足します。バローさんの指揮の素晴らしさについて書いてきましたが、それは他の指揮者を否定するものではないということです。
 バーンスタインの9番、ケンペさんの8番、ヨッフムさんの7番、コンビチュニーの5番、前述の若き日のチェリビダッケの4番、ヴァントさんの演奏の数々等、多くの名演があり、それはバローさんの演奏が現われた現在でも何らその光輝を失うものではないということは書いておきたいと思います。

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