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【101】泉谷しげるさん「春夏秋冬」「春のからっ風」:ほんとにダサくてかっこ悪いところがなんてかっこいいんだろう! *付録:70年代フォークの時代背景 2023.1.14

 この記事は【96】Dr.コトー診療所 映画 2022.12.27 の中で少し書いた泉谷しげるさんについて、これは別稿で書くべきだと感じたので大幅加筆して書き直しました。
 まずは名曲「春夏秋冬」、この曲は1972年に発表されたセカンドアルバム「春夏秋冬」に収録されています。
 岡林信康などに始まって、吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫、六文銭、少し遅れて中島みゆきなどが続く熱い時代の中で泉谷さんもデビューしました。 
 先ほど調べていてびっくりしたことがあります。泉谷さんの出身は東北の方だと今の今まで思っていたのですが、なんと東京目黒区で生まれ育っていたのですね。フォークシンガーは地方の方が売れるからと青森出身ということにさせられたのだそうです。
 都立目黒高校を中退しいろいろな職業を転々とし、春夏秋冬のジャケットには中小企業の工員で芽の出ない漫画家志望だったとあります。一方でローリングストーンズに憧れてロックシンガーを目指したが家が火事で全焼し楽器もみな焼けてしまったのでギター一本でいけるフォークシンガーになったのだとか。
 いずれにしても泉谷さんはとにかく汚くてダサくてかっこ悪くてがさつで口が悪くて乱暴で悪ぶっているけど、心のやさしさ、暖かさが隠し切れずに見えてしまう。
 「春夏秋冬」のラストの方に
 「汚いところですが、ひまがあったら寄ってみてください」
というフレーズが出てくるのですが、泉谷さんの住処ってほんとに汚いんだろうな、でも暖かそうで、ぶっきらぼうになんだか色々出してきてもてなそうとするんだろうなとか思えて好きでたまりません。 後に鈴木彩子さんがこの曲をカバーしていて、これがすごくハートフルで気合が入っていて、とてもすばらしいのですが、この部分はカットしていたことに笑ってしまいました。彩子さんのような美人シンガーが ”汚いところですが” とやったらイメージダウンになってしまいますものね。ここは泉谷さんにしか歌えないセリフなんだと思いました。

 もう一曲「春のからっ風」、これは本当に好きです。
 論理立っていないのに理屈抜きで歌詞が胸に刺さり泣けます。 

 春だと言うのに 北風にあおられ 街の声に せきたてられ
 彼らに合わないから 追いまくられ さすらう気は さらさらないのに

 誰が呼ぶ声に 答えるものか 望む気持ちと うらはら
 今はただ すきま風を手でおさえ 今日の 生き恥をかく

 何でもやります 贅沢は言いません 頭を下げ わびを入れ
 すがる気持ちで 仕事をもらい 今度こそ 真面目にやるんだ

 誰が呼ぶ声に 答えるものか 望む気持ちと うらはら
 今はただ すきま風を手で抑え 今日の 生き恥をかく

 言葉が 足りないばかりに 相手に自分を 伝えられず
 分ってくれない 周りを恨み 自分は正しいと 逃げだす

 誰が呼ぶ声に 答えるものか 望む気持ちと うらはら
 今はただ すきま風を手でおさえ 今日の 生き恥をかく

春夏秋冬もこの曲もいろいろな人がカバーしていて、福山雅治カバーがあったのでリンクを貼っておきます。良い悪いは別として全く別物ですね。

1970年代前半には、吉田拓郎、泉谷しげる、井上陽水、かぐや姫、六文銭、中島みゆき、小椋佳、荒井由実などのビッグネームが続々とデビューしました。この時代に何があったのか、時代背景についていつか書きたいといっていましたが、ここで少しまとめておこうと思います。
 お暇な方は読んでみてください。

*70年代フォークの時代背景*
 アメリカでベトナム戦争反対から拡がったボブディラン1963年「風に吹かれて」やジョーンバエズ1963「We Shall Overcome」、ピーターポール&マリー1963「悲惨な戦争」等が主導したフォークソングは自分の恋人が戦場に送られて帰ってこないかもしれないという状況の中で切実であり、大きなうねりを巻き起こしました。その大波は日本にも伝播し、70年安保反対の学生運動と一体となって高田渡1968.8「自衛隊に入ろう」や岡林信康1968.9.25「山谷ブルース」などのメッセージ性の強い反戦フォークが生まれ、新宿駅西口広場のフォーク集会などで大きな熱気の中で歌われました。
 あの時の学生運動が正しかったのか否か、何かの勢力に操られ利用されていただけだったのか、色々な見方があるでしょう。
 ただ、あの時の、俺たちが時代を変えなくてはならないんだという学生たちの思いと熱気はほんものだったように思いますし、世の中を変えるために立ちあがった学生たちを支持する世論も存在はしたのです。
 しかし70年安保闘争は、安保破棄に至ることなく延長され、その後の日本はアメリカの核の傘のもとに大きく経済発展を遂げることになります。
 この時の学生運動は末期には暴力闘争がエスカレートし、派閥同士の抗争が激化、凄惨な殺し合いや粛清などに進んでしまって世論の支持を失い、1972年の赤軍派によるあさま山荘事件を最後に急速にすたれていきます。
 こうした運動の背景となったベトナム戦争は北ベトナムの頑強な抵抗に手を焼いた米軍が1973年に撤退し、75年には南ベトナム政府の首都サイゴンが陥落し、北によるベトナム統一が行われ、完全に終結したのでした。
 こんな騒然とした時代に、結局は政治を変えることなどできなかったという無力感が若者の中に拡がる中から、反戦フォークに決別を告げ、俺は恋の歌を歌うんだという吉田拓郎が現れて1972.1.21の「結婚しようよ」1972.7.1「旅の宿」が大ヒットしてしまうことにより、フォークソングは一気に表舞台に登場することになったのです。拓郎はフォークの貴公子ともてはやされる反面、古いフォークファンからは軟弱だ、大衆に迎合するフォークの裏切り者だなどと呼ばれ非難の大合唱を浴びることにもなったのでした。この軟弱な「結婚しようよ」はそうしたアウェイのバッシングの中で強烈な反骨精神のもとで生み出されたものであり、後に続いた本当に軟弱な歌とは違うのだということは言っておくべきように思います。
 こうして、政治性を手放し、より音楽としてのレベルを高めたフォークはその後時代の主流となり、井上陽水の1972.7.1「傘がない」1973.9.21「心模様」かぐや姫の1973.9.20「神田川」1974.1.10「あかちょうちん」、少し遅れて中島みゆきが1975.12.21「時代」松山千春が1977.1.25「旅立ち」でデビューし、拓郎に憧れた長渕剛などが続々と現れたのでした。
 並行して登場しているのがニューミュージックと言われる分野で、小椋佳「さらば青春」でデビューしたのは1971年、そして荒井由実:ユーミンの「ひこうき雲」は1973年11月のリリースでした。こうした新しい歌が、それまでの歌謡曲全盛時代に風穴を開け、吉田拓郎の「襟裳岬」が森進一の歌唱で1974年のレコード大賞、歌謡大賞をダブル受賞するなど融合も進み、その後の日本の多様な音楽のベースになっていくことになるのです。
 こうした流れの中で元々のフォークソングの持っていたメッセージ性は失われ、どうでもいいような軽い歌ばかりが流行るのは正直なんなのだろうと物足りなく思ってしまう時があります。
 70年代の最後の年1979年12月2日に行われた吉田拓郎の武道館コンサートでの「僕の一番好きな唄は~人間なんて」はそんな流れを作った拓郎自身が苛立ちを時代に叩きつけたもので心に刺さります。
 https://youtu.be/vm0VYkTSwMs 




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