【227】夕方の彷徨:ブルックナー交響曲第9番の第4楽章の補筆改訂版 アルフォンソ・スカラノ/タイ・フィルの印象-訂正 2024.7.5
1 霧雨の中の彷徨
前回【224】の記事でアルフォンソ・スカラノ指揮タイ・フィルハーモニーによるブルックナー交響曲第9番の第4楽章の補筆改訂版の演奏を絶賛しました。
ただし、あの演奏が本当によかったのかについては、もう一度頭を冷やして聴き直して確認せねばと思っていました。
悪天候が続いていたのでちょっと時間が空きましたが、7月2日になって夕方の散歩をした時に、この演奏を最初から聴き直してみたのです。
この日は、朝から雨と風が強い荒れ模様のお天気でしたが、夕方になって雨が上がったので、今のうちにとウォーキングに出かけることにしました。
けれど雨は上がったといっても、またいつ降り出すか分からない状況で、実際歩き始めるとすぐに小雨が降り出してきて止むことはなく、ずっと霧雨の中を歩くことになりました。
けれど、そうした霧と霧雨の中をブルックナーを聴きながら歩くのは至福の時間でした。
2 スカラノ/タイフィルハーモニーの演奏の確認そして印象の訂正
スカラノ/タイフィルによる熱演は、第1-第3楽章については、しっかりと構築されてスケールが大きく、どこに出しても恥ずかしくないブルックナーの正統的な演奏を展開していると改めて思いました。
けれど、問題の第4楽章に関しては、もう一度聴きなおしてみて、
まだこれで決定版とまで言うわけにはいかないと訂正します。
Roberto Ferrazzaにより補筆版は、コーダの、第一楽章の冒頭部分が再現したところからラストまでの流れはとても素晴らしく、聴き終えたときの充足感は過去のどの版よりも優れていると思いました。
前回は、改訂版ごとの違いがでるフィナーレ部分の聴き比べをして、これはと思うものがあると4楽章の全体を聴いてみるという形で、最初にこの部分だけを聴いたのが高評価につながったのでした。
けれど、そこに至るまでの、楽譜が残っているとされている部分がおかしいのです。
聴いていて、一つの楽章としての統一感がないのです。
色々な無関係のモチーフが詰め込まれて、脈絡なく接ぎ合わされている、そんな感じがして、ブルックナーの、楽章全体を貫ぬく悠々とした壮麗な山脈のようなスケールの大きな息遣いを感じることができないのです。
そして、そのこととも関連するのですが、楽章を通してブルックナーの音楽に特有の静けさの部分がないのです。
ふとした時にブルックナーの音楽の中に思いがけずに顕われる天の啓示のような崇高な瞬間がないのです。
公平を期すためにラトルさんの演奏も聴き直しました。
前回はかなりの暴言を吐いてしまいましたが、颯爽としていて、よく考えられていて、スマートな演奏で、悪くはない、こういう行き方もありなのかなと思い返しながら聴きました。
でもやはり第4楽章の音楽が雑然として騒々しい印象を与えることは変わりませんでした。
楽章の前半部分というのは、確かにブルックナーの自筆楽譜が残っているそうで、どの演奏でもほぼ同じ音楽になっています。
でも、それが自筆だとしても、ほんとうにブルックナーがこれでよいと納得していたのかについては大きな疑問を感じます。
3 ブルックナー9番第4楽章の補筆完成は可能なのか?
前回も話したように、現在、スカラノ版、ラトル版を含め、多くの補筆完成版が出ているわけですが、これらをブルックナー本人に聴かせたとして、
「これで満足じゃ、もう思い残すことはない」
と言うとは僕には到底思えないのです。
ブルックナー9番に関するウィキを見ましたが、終楽章の補筆に関しては下のような否定的な見解もあることが書かれていました。
『ブルックナーは、死期が迫っているのを感じ、考えが熟さないまま終楽章のスコアに手を付け始めた。現在自筆楽譜で残されている部分についても、必ずしも最終形を意図して書いたわけではなく、まだまだ推敲を重ねていくつもりだった(ブルックナー研究家の川崎高伸による)。』
僕もその見解に賛成で、色々聴いてみて、残存しているブルックナーの自筆楽譜自体の完成度については懐疑の目を向けざるを得ないのです。(あくまで個人的な感想に過ぎませんが。)
*補筆せず残されたオリジナルスケッチのみを演奏したものがありましたので紹介します。
ブルックナーは、この現存部分について、これで納得していたのでしょうか?
僕には、完成していると言われる部分についても、まだまだ決定版ではなく、推敲を要するのではないかと思われるのです。
4 世界の再生と祝福
前回も書いたことで、僕の勝手な解釈ですが、9番は第一楽章の冒頭で世界が生まれ、終結部においてその世界が崩れ落ちる滅びが描かれます。
この終結部は、ヴェルディのレクイエム「怒りの日」にも優るとも劣らない強烈な滅びの日です。
こんなに激しい音楽はブルックナーの他の曲には存在しません。
バローさんの「9番は他のどれとも異なる」という言葉の由縁でしょう。
けれど、僕には、ブルックナーが第9交響曲において、この滅びをそのままにしたままで曲を終えようとしていたとは考えられないのです。
ヴェルディのレクイエムでも「怒りの日」は終曲において再現されます。
ブルックナーの4番でも第1楽章が第4楽章に再現します。
同じように、第一楽章は第四楽章において再現され、そして滅びは祝福に変わりこの大曲が締めくくられる。
この形しかないと僕は思っているのですが、それが実現することは有得ず、僕の頭の中での脳内再生に終わってしまうのが残念です。
5 結論まとめ
再検証の結果をまとめると以下のようになります。
1)Roberto Ferrazzaの補筆による第4楽章は今までに発表された補筆完成版の中ではベストと言ってよい。特にコーダの部分はすごくよい。これをフィナーレにしてもよいと思えるくらいである。
2)アルフォンソ・スカラノ/タイ・フィルハーモニーの演奏は素晴らしい。
国境を越え、驚くべき本物のブルックナーの音を奏していた。こんな所にブルックナーのオーケストラがいたのかと脱帽である。
他の交響曲をこのコンビがどのように演奏するのか期待したい。
3)それにもかかわらず、第4楽章全体の完成度には疑問が残る。
それは補筆如何の問題ではなく、それ以前に、遺されている自筆部分の完成度自体に問題があると僕は思う。
4)結論としては、この版も含め、今までの補筆による第4楽章は却って感興が薄れるものであるため、第3楽章に続けての演奏はして欲しくない。
ブルックナー本人が納得していないものを出すというのはかえって作品を傷つける可能性があるのではないか。
5)完成への試みは興味深く、続けて行って欲しいが、もしやるのなら、自筆部分の大胆な推敲が必要であり、楽章全体を創作レベルで作りなおす必要があると思う。そんなことができるのは神様か、深化したAIだけなのかもしれない。
6 補足の議論-1 第7交響曲と第9交響曲の第4楽章の類似性
ブルックナーの交響曲の中の最高傑作といえば第8番であるというのは大方の賛同するところだと思います。
反面、あの素晴らしい第1、第2、第3楽章を持っているのに、第7番を推す人は少ない。
3楽章までだったら7番の方が大きくリードしていると思う人も多いのではないでしょうか。
なのにほんとうに惜しいことに7番は第4楽章がどうしようもなく弱いのです。
決して悪いとまでは言いませんが、前3楽章の凄さからは明らかに落ちる。
これら前3楽章を受け止め、締めくくるには決定的に力量不足だと僕には思えるのです。ほんとうに残念で勿体ない話です。
それに引き換え8番の第4楽章の悠然たるコーダの素晴らしさはどうでしょう。
他はどうあれ、言ってしまえば、終わりよければ全てよしなのです。
僕の友人には、7番は2楽章までで後は聴きません、などというものまでいます。僕自身も第3楽章まで聴いて終わりにしてしまうことも正直多いです。
今の第9の4楽章を聴くときに感ずる違和感というか物足りなさは、実は第7番の第4楽章を聴いたときに感ずるそれと酷似し共通しているのです。
第7番がもしも第3楽章までの未完に終わっていたら、この曲はもしかしたら、今よりももっともっと名声が高かったのではないかとさえ思うことがあります。
7 補足の議論-2 第7番はこう聴くべき-楽章を入れ替えて聴く
ちょっと脱線しますが、7番のフィナーレの弱さをなんとかできないか?
この問題を考えてみました。
①終楽章には第1楽章を持ってゆく!
7番の4つの楽章の中でのクライマックスが第2楽章であるというのはヨッフムさんも語っていた通り、衆目の一致するところでしょう。
けれど、フィナーレがもっとも凄いのは実は第一楽章なのです。
7番は、楽章を入れ替えて、第1楽章を最後に据えるしかないのです。
②スケルツォは第2楽章に!あの第2楽章はその後ろに持ってゆく!
スケルツォは8番9番と同じく第2楽章に持っていき、あの美しい第2楽章は第3楽章に持っていきます。
③第4楽章は消去法で第1楽章に持っていく!
つまり、第4楽章、第3楽章、第2楽章、第1楽章と今と全く逆順に並べるのです。
早速、僕は、ヨッフムさんのライブで楽章を入れ替えて聴いてみて、このアイデアを試してみましたが、これはあり、かなりいいのではないかと思えました。
なんといっても、元第一楽章のフィナーレが最後に鳴り響いて1曲が終わった時の、その充足感は圧倒的なものがありました。
まず第1楽章(元の外4楽章)ですが、多くの期待を背負わないトップバッターなら悪くはないと思いました。
実はこの後で僕は大きなミスをしていたのです。
第1楽章(元の第4楽章)が終わったところで拍手の音が入っていたのです。当たり前ですね。
おかげでスケルツォへのつながりについては確認できなかったのですが、スケルツォが第2楽章に置かれること自体には違和感はなく、スケルツォが終わり、第3楽章(元の第2楽章)が入ってくるところは鳥肌もののいい感触でした。
元の第2楽章から元の第1楽章へのつながりも悪くなく、前述のように、元の第1楽章のフィナーレは圧倒的でした。
まっとうなブルックナーファンからは顰蹙を買いそうですが、もし、どなたか興味を持って試していただき、感想を教えていただけたら嬉しいです。
もしかしたら、第2楽章から始め、スケルツォを挟んで第1楽章で締める3楽章構成で聴くなどというアイデアもありかもしれませんね。
8 散歩の途中でナワシロイチゴを摘みました
音楽の話はおしまいで、話変わりますが、この時の散歩の途中で道端にナワシロイチゴの群落があるのを見つけました。
ルビーのような紅い透き通った粒粒が雨に濡れてとても綺麗でした。
雨に打たれながらしばらく摘んで持ち帰りました。
黒味を帯びて完熟したものは花托部分が力がいらずにホロっと取れます。
味は甘くて酸味があって爽やかな美味しさです。
といっても人が進化させ丹精した果実ではなく野に自生する草ですからすごく美味しいというわけではありません。
期待しすぎず、美しさを楽しむというのがちょうどよいのかと思います。
今回も長文になってしまいました。最後までお付き合いいただいた方がいらっしゃいましたら感謝です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?