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すべては好感度のため

好き嫌い激しいくせに、自分が嫌われるのは怖い。
嫌いな人からも好かれたい。全員から認められたい。褒められたい。すごいと思われたい。感謝されたい。

本当に面倒くさい性格だなって自分でも思う。
でもどうしても直せない。

こんな性格だから、私の毎日の言動は人からの好感度を上げるためのつくりものである。『良い人』を演じているだけだ。

『ありがとう』って言われたいから頼まれたことは嫌でも断らないし、『良い子だね』って言われたいから悪口も文句も言わない。でも本当は嫌なことは嫌だし、悪口も文句も頭の中では溢れかえっている。

自分の気持ちに反した言動をすることも多々あるからしんどいときもあるけれど、『良い人』でいることで自己肯定感を上げているから、この性格でいることはそこまで苦でないと思っていた。

でも、できるのなら本当は『素』で生きたい。というか素で全員に認めてもらえる人になりたい。

この性格でいることは苦でないと言ったけれど、いくつか苦しかった思い出もあるからだ。

まずは、高校生のときの話。
所属していた部活の朝練は、毎日自主練という形で自由参加だった。だから来る人は来るし、来ない人はまったく来ない。私は負けず嫌いだから、上手くなりたいの一心で毎日行っていた。

でも、その気持ちは気づいたらなくなっていた。
次第にまわりの人から『毎日来ててえらいね』『頑張っててすごいね』と言われることに快感を覚え、上手くなるためではなく、みんなから褒められるため、認められるために朝練に行くようになってしまったのだ。

だから、今考えたら練習の中身は全然詰まっていなかったのだと思う。上手くなりたいとかは関係なく、ただ毎日朝練に行くという行為だけで満足していた。

2年生になったある日、部内でオーディションがあった。私は変わらず毎日朝練に行って練習をしていた。だけど、選ばれたのは自分より練習時間が少ないはずの友達。

なんで自分より努力していない人が報われるの?
毎日泣いた。でも、間違っていた。
私は毎日朝練に行き、人から褒められる自分に酔っていた。『努力していてえらい』と思い込んでいたけれど、練習は量より質だ。眠い目をこすりながらとりあえず朝練に行ってなんとなく練習していた私より、決められた部活の時間内で集中して効率よく練習した友達のほうが技術が上だったのだ。

結局私は『誰よりもたくさん練習しているのにオーディションで選ばれない可哀想な人』になってしまった。ここでも人からの評価を気にしてしまうから、正直オーディションで落ちたことよりも、まわりからそうやって思われることのほうが怖くてつらかった。

褒められるために毎日とりあえず朝練に行って満足して、本質を忘れるという。今思えば努力と言っていいのかもわからないし、本当に馬鹿だと思う。


もう一つは、友達との人間関係の話。
私は『優しいね』『良い子だね』『真面目だね』とtよく人から言われる。そう思われるように振舞っているのだから、当たり前だ。

私はそれが良いと思ってこれまで生きてきたけれど、ただの真面目な良い人ではつまらないのだと気づいた。

人との会話で結局一番盛り上がるのは悪口や愚痴だ。私はそういうことをあまり口に出せないから、きっと友達も気を使って私の前ではそういう話をしないようにしている。申し訳ないと同時に、『良い人』でいることだけが人から好かれる極意ではないのだと気がついた。多少人間味のある人のほうが、人から好かれるのだ。

悪口で盛り上がれる人になりたいとは思わなけれど、今の自分は冗談の通じない真面目でつまらない人だ。『良い人』のまま全員から好かれるのは難しい。


他にもたくさんあるけれど、考えれば考えるほど、もっと自分の心に素直に生きたいと思った。

目に見えるものだけが人から認められる要素ではないし、案外人は自分のことなんて見ていないし評価もしていない。わかっているつもりだけど自分の心がわかってくれない。

やっぱり、好感度のために生きるのはやめたい。

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