新海誠監督『天気の子』雑感。※ネタバレあり

■1年ほど前に書いた記事ですが、noteに移植。コロナ禍経験中、いま自分で読み返してみて、この『天気の子』で示そうとしていたこと(中村解釈)が如何に難問含みであるかを感じるところ。どの世代だって日常に嘆息した、してるよなーと。あまり次世代に希望を見すぎて、そうした全世代的な疲弊を無いものにしてはいけないと思う。けれども、次世代を信じることはまた重要であることに変わりはないはず。いずれにせよ、『天気の子』には色々と深堀できそうな問いがあるので、ここに置いておきます。

 新海誠監督『天気の子』を観てきたので局所的感想。細かいところはすべて置いておいて、その結末に着目して。

 ※以下、ネタバレあり。





 帆高の結論は端的に言えば、「陽菜が戻ってくるのであれば、世界の雨が降り止まなくたっていい」だ(そして東京は水没する)。ただし、この先にこそ本当の結論――決断があるのだがそこは後で触れよう。

 前作『君の名は。』と『天気の子』には明らかに共通したモチーフがある。それは、『君の名は。』なら瀧と三葉の決断が、『天気の子』なら帆高と陽菜の決断が、世界そのものを変えてしまうということだ(しかし、変わった先の世界がそれほど突飛ではないことは重要だ)。

 『君の名は。』は、世界線を変えるにしても、震災後文学としてその結論――「なかったことにする」という結末はありなのか?安易な願望充足的な結論ではないのか??という批判も起きた(典型的な批判は、飯田一史・藤田直哉の対談参照)。こうしたタイプの批判を新海誠が意識しているのは明かで、というか本人が明言しており、最新のインタビュー記事でこう述べている。

――次の作品を、「主人公と社会の価値観が対立する」映画にしようと思ったのはなぜだったのでしょう。
 それは……僕自身の気分だったとしか言いようがないですね。直接的な理由を挙げるなら、『君の名は。』がすごく批判を受けたということはあります。『君の名は。』の公開期間中だと、テレビをつけても、雑誌を見てもそういう感じで。「ガキっぽい映画だ」みたいな言われ方もずいぶんしましたし、「代償なく人を生き返らせて、歴史を変えて幸せになる話だ」とも言われました。「ああ、全く僕が思っていたことと違う届き方をしてしまうんだな」と思いました。/瀧も三葉も、代えがたいものを失う経験をし、それによって決定的に変えられてしまった人ではあるんです。そうした反響への反発のようなものが、『天気の子』をスタートさせるときに、最初にあったんだと思います。(「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟

 まずは、新海誠とは違う角度から考えてみたい。多分?新海誠自身が論じているわけではないが(何処かで論じていたらご教授頂けると助かります)、『君の名は。』を生きる人たちにとっては、「代償」や「願望充足」ということ自身が本当は当てはまらないはずだ。世界は確かに「変わった」のだが、それを認識できる存在はあそこには存在しない。すべて忘却されるのであり(古谷利裕の言葉を借りれば、世界は忘れていることさえ忘れている)、被害を受けずに済んだ、という歓喜などなく、ただそこに世界があったに過ぎない、そう言わざるを得ないのだ。あそこに喜ぶ主体など存在しないのだ。『君の名は。』が見せるものは、むしろ世界はどうあってもここにある在り様でしか存在しない、ということでもある。

 ただし、あのラストは世界が忘却しようとする可能世界への問いかけでもあろう(この辺は、古谷利裕『虚構世界はなぜ必要か?――SFアニメ「超」考察』〔勁草書房、2018〕、247頁以降参照)。

 さて『天気の子』に戻ると、明確に陽菜を戻す「代償」が描かれている。東京水没!――と言っても、低地がではあるが(東亰か!!)。田端のあの辺りは確かに高台で水没しないなー、あの下付近に住んでるから我が家は水没かな、とか思いながら。

 別に少女を選んだからと言って世界を破棄する映画ではなく、それでも日常は雨の中で続いていく。先のインタビュー内で新海誠は、「例えば、僕らは「季節の感覚が昔と変わってきてしまった」と感じて、ある意味、右往左往しています。でも、今の子どもたちにとっては、それが当たり前なわけですよね。ですから「異常気象だ」なんて彼らは言わないし。『天気の子』は雨が降り続いている東京が舞台ですが、帆高も陽菜も、雨が降り続いてることについて何もネガティブなことを言わないんですよ。周りの大人たちやニュース番組はそういう話をしているんですけれど。そんな大人たちの憂鬱を、軽々と飛び越えていってしまう、若い子たちの物語を描きたいなと強く思いました」と述べている。

 新海誠は「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」とも述べているが、それはもしかすると、代償を意識しながらの決断(しかも社会もちゃんと少年たちを追い詰める)ということを前面に出すことで『君の名は。』であった批判に応答しつつ、しかしその代償も普通の日常として平気で生きてしまう新しい世代のもつ、羽の生えたような魅力を描く、ということなのかもしれない。

※あえて『君の名は。』に寄せる必要はないと思うが、妻を亡くした須賀の存在も大きい。決して須賀の妻は帰ってこない、ただ悼むことしかできない。しかし、会いたいと願う気持ちを否定する必要なんてまったくない、そんなメッセージが託されているような気がした。

 さて。帆高の「決断」とは、単に世界の形を変えたことではない。帆高と陽菜によって世界の形が変わったと認識する者は、実は当人を除いて誰一人としていない。これは空に上がった者だけがもつリアリティーだ。誰も二人が世界を変えただなんて知らない、本気で思わないのだから(先輩は味方だし)、もともと水没した東京のあの辺は海だった、世界はもとから狂ってる、こういう世界像を受容して雨の世界を元からあるはずの日常として生きていくことだってできた。

 しかし、それを最後に否定して、自分たちが世界を変えたという確固とした認識で生きることを「決断」したのだ。須賀が揶揄する「傲慢」な認識にも見えるが――いやそう言っても別に構わないだろう、これは目の前の世界を主体的に選び取った意味の物語なのだ。こここそ『君の名は。』に対する応答、さらなる掘り進めなような気がしてならない。

 ままにならない社会に折り合いをつけて何とか生きていくには、超個人的な意味の充足が必要なのではないかなと。社会的価値観と個人的価値観が重なる人はいるだろうけど、それはラッキー。この問題はとても大きいし、新海誠はそこに迫ったとも言えようか。

 予断的余談。

 自分のことを願って。あの場面、推しがいる人ならすごーーくその気持ちがわかるはず。

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