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明確な善意の要求への対応

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40年近く生きてきました。39歳。まごうとなき大人です。
「大人になったな」と実感することの一つに「己の感情のコントロールが上手になった」というものがあります。
喜怒哀楽に振り回される回数が格段に減っているのです(特に"怒"と"哀")。例えば、失恋したとき。10代の頃はこの世の終わりのように落ち込み、悲しいやら恥ずかしいやらで涙が枯れるまで泣いたとしても、今は「これもまた人生なり」と謎の納得性を己に与えることができるようになったのです。

この要因ですが「様々な出来事に対して許容範囲がグッと広がった」というものがあると考えます。
自分、他人、出来事。森羅万象に対しての許容範囲がいつの間にか広がるのです。かわいいと思える対象が増えたり、他人の意見を尊重できるようになったりする。
結果、憤慨することも少なくなる。そして、理想と現実の間に納得のいく着地点を見つけ、そこに上手にひらりと着地できる。失恋にさえ納得性を与えられる。無論、満足できる。断じて妥協ではない。これは、誰がなんと言おうと大人になり身に付いた能力のひとつなのです。

しかし、未だにどうにもコントロールできないと言うか、その場に出くわすと感情が混乱することがあります。
「明確な善意の要求」です。

どういうことか。
今年の夏の出来事です。駅前。炎天下。焼けたアスファルトの上。おじいさんが正座していました。真っ黒に日焼けしています。服や靴はボロボロで、外見から判断するに「ホームレス」と呼ばれる方です。
その駅はあの山崎まさよしさんが探し物をしたことで有名な横浜の桜木町という駅で、みなとみらいの商業施設やオフィスビル、観光地も近く、比較的小ぎれいな人たちが行き交っています。僕自身、2年ほどその駅を利用していますがホームレスの方を見ることはめったになく、非常に目立っていました。
そして、そのおじいさんの前。2mほど開けて、空のじゃがりこの容器が置いてあります。
これは「お金を恵んめぐんでほしい」という意思表示です。

こういう時、僕の中にどうしようもない葛藤が生まれるのです。
それは「いくら入れるのが正解か」というものです。
僕の勝手な感覚ですが90%くらいの人は「お金を入れない」という選択をするのでしょう。実際、ホームレスのおじいちゃんの前を通る人はほぼ全員スルーです。でも、いるのです。数十人に1人、お金を入れる人が。僕も入れる。絶対にスルーはできない。スルーしたら後日、後悔することは分かっているのです。

昔、新宿駅の券売機の前で「いくらか電車賃を恵んでほしい」と言われたことがあります。
おばあちゃんでした。その頃の僕はサラリーマンで、重い荷物を持って都内を動き回り営業をしたり頭を下げて謝ったりする生活で、とにかく忙しくて、いつも寝不足で、その日は夏で、暑さにもイライラしていて、僕はおばあちゃんのことを無視しました。
僕は、そのことを今でも悔いています。よくある詐欺の可能性もあります。
suicaの普及で見なくなりましたが、昔は大きな駅の券売機の前で何かしら理由をつけて「電車賃をくれ」と小銭をせびる詐欺を時々見かけました。
僕に声をかけたおばあちゃんも詐欺かもしれない。でも、もしかしたら、本当に困っていたかもしれない。
もはやそれはどっちでもよいのです。詐欺でもいいし、本当に困っていてもいい。
僕は「無視した」ことを後悔しているのです。「断る」ではなく「無視」したのです。
あの日、新宿駅の僕は「こんだけ人がいて、俺を選んでんじゃねぇよ。他に人が良さそうなやついっぱいいるだろ」という気持ちがあって、イヤホンもしていないのに聞こえないふり、目の前にいるのに見えないふりをして、存在を無視したのです。

その経験が楔となり、僕はまるで呪いにかかっているように「明確な善意の要求」を見ると「これを無視したらまた後悔するぞ」という恐怖に近い感情と、「何とかして対応しなくちゃ」という感情を抱くのです。

これもずいぶん前の話ですが、外国の方がスーパーのレジでお金が足りないという状況に出くわしたことがあります。
レジはまあまあ並んでいて、外国の方は日本語さっぱりで、英語圏の方でもなく、おそらくお金が足りていないことも理解できていない。
金額は忘れましたが数十円だったと思います。僕が不足分を出しました。外国人の方は僕がお金を払ったことで初めて支払いが足りていなかったことに気付いたようです。
この時の僕は、一切の葛藤はなく、何の躊躇もせずお金を払いました。

スーパーの外人さんには葛藤しなかった理由を自分なりに考えたのですが、横浜のホームレスや新宿のおばあちゃんからは明確な「お金をください」という「善意の要求」があり、スーパーの外国人にはそれがなかったからではないかと考えます。
つまり僕は「善意の要求が相手から明確に有るか無いか」が葛藤の有無に繋がるということが分かりました。ここまでは自分のことを理解できました。
ここからです。
ここから、なかなか進まないのです。

今回の駅前のホームレスの方の場合。
まず心の中に「うわ!これは無視したら一生心の中に後悔が残るやつ!」と警報が鳴ります。なんせ、炎天下の夏。アスファルトの上でおじいちゃんが正座している。もうこれは詐欺か否かという問題ではない。由々しき事態です。なんせ僕よりも数十年も長く生きたおじいちゃんが何もせず、正座をして、多くの人からの視線を受け。ただ座って情けを乞うている。僕にとってそれは人間の尊厳にかかわる出来事なのです。
「お金を入れない」という選択肢はありません。
あるのは「いくら入れるべきか。いくらが正解なのか」という葛藤です。ここがもう本当に分かりません。
例えば1万円。僕はまちがいなく後悔するでしょう。その1万円を持ってニヤニヤ顔でおじいちゃんが関内あたりの大衆居酒屋で酒盛りしたりするのを想像してしまうのです。さっき「詐欺かどうかなんて問題ではない」って言ったのに、僕の心は矛盾だらけで、僕の収入の1万円はあまりにも惜しいのです。
じゃあ5000円か、3000円か、1000円か。いずれも大金です。お賽銭で神様仏様に対しても払ったことありません。じゃあ500円か、100円か50円か。さすがに10円じゃ少ないだろう。今時、10円ではうまい棒も買えないのです。

よし、じゃあ、持っている小銭全額にしようか。これで手を打とう。たまたま出会った「明確な善意の要求」。その時たまたま持っていた僕の小銭。それがいくらであろうが、それで己を納得させるしかない。そう決めます。
しかし、問題が。
僕、小銭を持ち歩かないのです。
つい最近、財布を持つことをやめました。以前は長財布を使っていたのですが、決済は9割キャッシュレスだし、大きな財布が邪魔に感じたのです。今はカードが数枚と、数枚の折った一万円札だけが入る小さなポーチを財布代わりにしています。
つまり、現金決済しかできない店に行った後でない限り、小銭は持っていないのです。
ここで、僕は一回おじいちゃんをスルーして、駅ナカのコンビニまで戻り、小銭を作ることにしました。現金1000円でアクエリアスを一本買って、おじいちゃんのところに戻り、そのおつり全額をじゃがりこの容器に入れ、ついでにアクエリアスをおじいちゃんの前においてきました。

(なにやってんだよ)
という感情が、すごいのです。
それだったら1000円入れたらよかったじゃん、それに「たまたま持っていた小銭」という自分で出した結論をひっくり返しているよね、という自省。
でも、1000円だと容器に入れたときに物音ひとつしないけど、小銭はジャラジャラ音がしたのは良かったな、それにあのおじいちゃんにはアクエリアスは必要だろう、とか。あと、ここが人が行き交う駅前だから1000円入れたけど、これがホームレスがたくさんいる公園だったら同じ金額は入れたかな、とか。
もう、本当によく分からないのです。
これが僕の悩みである「明確な善意の要求に対する自身の対応」です。
僕は自分がかわいくてしょうがないから、相手の要求に応えるのは純粋な善意ではなく保身に近いのかもしれません。偽善とか自己満足の世界と言われたらそれまでよ。
あれから半年以上経過した今でも時々思い出しは色々なことを考えます。

僕はここから先「明確な善意の要求」があったとき「どうすべきか」が分からないのです。この先一生オタオタするのでしょうか。
ここまで長々と書きましたが、ところで僕が何に悩んでいるのか分かりますか。
みなさんは悩んでいないのですか。
どうして悩んでいないのですか。
視界には入っていますか。
視界に入ったらスルーできますか。
なぜスルーできるのですか。
スルーできない人はなぜスルーできないのですか。
お金は入れますか。
いくら入れますか。
なぜその金額なのですか。
親からは何と教育されましたか。
子供に聞かれたらなんて答えますか。
善意や贈与は巡り巡って返ってくると信じている派ですか。
僕はただ、後日、後引かぬ回答を己に与えたいのです。それだけなのになんかものすごく広大な範囲を考えてしまっている気がします。

追記

先日こんなことがありました。
定食屋さんで昼ご飯を食べていました。席はレジのすぐそばでした。
食事をしていたら突然「おにいさん、わりぃけどね、20円、恵んでくんないかな」と声をかけられます。見ると、知らないおじいさん。ヘヘヘッと困り顔で笑っています。奥にいる店員さんもレジで困り顔で何か言い出しそう。どうやらお会計が20円足りないようです。僕は生姜焼き定食を頬張りながら「あ、はい、いいすっよ(モグモグ)」とポケットにあった小銭から20円を差し出します。おじいさんは「どうもね。ありがとね。助かったよ」と去っていきました。
この時、理解したのです。
僕が苦手としているのは「明確な善意の要求」ではなく「提供の量の判断がこちらに委ねられている善意の要求」だったのです。別に善意を要求されるのは苦ではない。やれるだけのことはやりたい。困るのは「お気持ちだけください」なのです。
駅前のホームレスの方は「いくらでもいいので恵んでください」だから葛藤して、定食屋のおじいさんからは「20円ちょうだい」と明確な要求を提示されたので葛藤は生まれなかったのです。
きっと、駅前のホームレスの方の容器に「500円ください」と書いていたら僕は(500円ですね)と迷わず、葛藤せずに500円を入れて満足していたでしょう。
そして、スピード感も大事だということを発見しました。「提供量の判断がこちらに委ねられている善意の要求」に出くわしたら、葛藤する時間を己に与えない。そのためにあらかじめ「いくらで対応する。無いときはこうする」という答えを用意し、即座にその通りに動けばいいのです。
なんだ。探していた答えはこんなにシンプルだったのか。

こうやって自分の中のモヤモヤをそのままにせず、答えを見つけ己に与えることができるようになったのも、大人になったな証拠のひとつだな。と定食屋さんから「さっきはどうもありがとね。お店も助かりました」とサービスで出された林檎をかじりながら考えました。

ありがとうございました
おしまい

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