見出し画像

ビールと日本人


虫の鳴き声などの自然音は本来人間は右脳で処理するらしい。
が、日本人は左脳で処理をする、すなわち自然音を言語のように処理するという研究結果がある。
なのでスズムシの音を聞いたときに秋の訪れや季節の移り変わりなどを無意識に感じるという。
さすが5.7.5システムを生み出す民族性。
以前からぼんやりと、ビールに対する考え方が日本人と外国人で違う気がしていたのだが、冒頭の研究結果を見るとその違和感になんとなく自分自身で仮説が立てられる気がしてきた。
自分自身の話だが、十代の頃に初めてビールを飲んだときの、そのあまりの不味さに驚いたことがある。
こんな不味いものを大人はなぜ楽しそうに、幸せそうに飲むのかまったく理解できなかったが、それは私が十代だからだと思っていた。
今思うとかなりバカな考えだが、20歳になると自動的に美味しくなるものだと考えていた。
ところがである。
20歳になって飲んだビールが十代の頃とまったく変わらず不味かったのである。
成人になってまず最初の挫折だったと思う。
ビールに関していえば、「あー俺ビール苦手なんすよー」という人生だけは是が非でも回避したかった。
だってビールを飲む大人たちが本当に美味しそう・・・というか幸せそのものに見えたんだもん。

高倉健を除く

「これは練習するしかないな!」私はバドワイザーの350ml缶を買ってきて2,3口飲み、「マッズー」と思っては冷蔵庫に収め、
翌日またその収めたバドを2,3口飲み、それを5日間ほど続けた。
練習すれば飲める・・という類のものではないナと悟ったが、
ビールのない人生を送るのだけはまっぴらごめんだという謎の脅迫観念に支配されていた。
アメリカ帰りの友人にビールを飲めるようになるにはどうすれば良いか相談をしたところ、彼曰く、「なんでもいいから水分くれっていう状況で飲んだらどんなもんでも玉露になる」とのこと。
思わぬ金言をいただいた私はとある日に、朝から水分を一切取らず、喉が乾いたときに汗をかくように体を動かした。(確か家の周りを走ったはず)
そして、「よーし飲むぞ!」という体制から「なんちゃってー」と自分で自分にフェイントをかけるという小技を駆使しつつ、
いよいよビールを飲んだ。
まさにガバガバ飲み、1缶を2/3くらい一気に飲んだ。
飲んで全盛期の松方弘樹くらい「ぷはあああー」と言った(はず)
で、味はというと、不味いことに代わりはないが、そんなことよりビールを飲めた喜びに打ち震えた。
それから30年以上経ってまさか自分がカジュアル中
(カジュアルなアルコール中毒者の意味・自分で作った言葉)
になるとは人生どうなるかわからないな。はははは・・・
「ビールを飲む」は「酒を飲む」とは次元が違う気がするし、
日本人もどこかでそんなような感情があるのではないだろうか。

ビールジョッキやグラスを手にしているときって、大体みんな満面の笑みをしてないか。
麦を発酵させた汁を飲食の延長として取っているというものではないのではないか。
ビールを飲めるという状況に実はみな幸せを感じていて、
「ビールを飲む」という行為自体そのものに大きな価値があるのではないか。
「平和」というものは戦争中にしかその実態は浮かばないが、
ビールを飲んでいるときだけ、その「平和」が可視化されるのではないか。
「ビール飲もうぜ!」
は単に酒を飲もうということではなく、
「幸せを実感しに行こうぜ」
ということではないか。
ストロングゼロ飲もうぜ!とか大五郎飲もうぜ!
と言われたら、いよいよカウンセリング行けよと進言するが、
ビールだけはどの酒よりも異次元で別格で、
仮想的だろうが人をその時間だけ豊かにしてくれる。
書いてて今まさにビールが飲みたい。
毎日飲んでるのに。
日本人は海外に比べ、その刹那に感謝する度合いが大きいのではないか?
というのが私の仮説である。(異論は認めない)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?