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『ポルノグラフィ防衛論』(ナディーン・ストロッセン)ブックトーク

うぐいすリボン主催ブックトーク「性表現の自由と規制をめぐって」

第1回 『ポルノグラフィ防衛論』
 著者:ナディーン・ストロッセンさん(元アメリカ自由人権協会会長)    
 質問:スヴェトラーナ・ミンチェバさん(全米反検閲連盟プログラム顧問)

 うぐいすリボンでは、表現の自由に関係する様々な本の著者をお呼びしてのブックトークを実施しています。本シーズンは、世界的に議論が激化している性表現をめぐる自由と規制の問題についてとりあげます。

 第1回目の今回は、1995年にアメリカで出版され、その後の性表現をめぐる議論に大きな影響を与えた書籍『ポルノグラフィ防衛論』(原題 ”Defending Pornography : Free Speech, Sex, and the Fight for Women's Rights”)について、その著者であり、またアメリカ自由人権協会の会長でもあったナディーン・ストロッセンさんにお話をうかがいました。

(2022年12月にビデオ収録。本稿はそこからの抄訳)


スヴェトラーナ・ミンチェバ(以下、ミンチェバ):
 
ナディーン・ストロッセンさんをご紹介します。作家で法学教授、人権活動家であり、性表現の規制問題に関する論客でもあります。ようこそ、ナディーン。

ナディーン・ストロッセン(以下、ストロッセン):
 
こちらこそ参加できて光栄です、スヴェトラーナ。

ミンチェバ:
 
あなたの著作には、激しい議論を呼ぶポルノやヘイトスピーチについての言論の自由の論点に関するものがいくつかありますが、今日はそのうちの一冊を取り上げます。1995年に、一世を風靡した本、『ポルノグラフィ防衛論』です。

ストロッセン:
『ポルノグラフィ防衛論』。副題は、「表現の自由と、セックスと、女性の権利をめぐる戦い」です。

ポルノグラフィ論争のはじまり


ミンチェバ:
 
まさに今回のテーマですね。それでは、さっそくですが、フェミニストと性表現規制の問題の始まりから、お話を聞かせてもらえるでしょうか。

ストロッセン:
 
ええ、もちろんです。

 1980年代初頭のアメリカでは、フェミニスト運動の一部で変化があり、それが広がっていきました。広告などのメディアにおける女性への侮蔑的な表現について、性差別として批判することから脱却し始めて、そうではなくポルノとしての問題に焦点を当てるようになっていったのです。ポルノこそが女性に対する差別や暴力を生み出している主な原因である、あるいは主な原因とまでは言えなくとも、その一因になっているのだという主張をするようになりました。「ポルノ」という非常に軽蔑的な言葉を使うことによって、性的イメージを規制していくことに焦点を当て始めたのです。

 日本語ではどう感じるか分かりませんが、英語では「ポルノ」というのは、とても侮蔑的な言葉です。その言葉が使われる対象とは必然的に不快なものであって、「エロティック」がポジティブな意味合いを帯びるのとは、対照的な言葉になっています。ですから、私は、「性的イメージ」や「性表現」などの中立的な用語を使うようにしています。

 このようなポルノ問題に焦点を当てたフェミニズムの流れが、メディアの注目を集めるだけでなく、政治的な支援と、世論からの支持を得ていくことになりますが、アメリカには、同じようにポルノ問題で政治的発信をしていた別の影響力のある人々がいます。当時はさらに影響力があったわけですが、いわゆる「宗教右派」と呼ばれる、政治的 文化的に保守的な人々です。多くはキリスト教の福音派や原理主義と関連があります。ロナルド・レーガンの大統領選の支持基盤となるなど強い政治的影響力がありました。彼ら宗教右派も、同様に性的に露骨な表現に反対しているわけですが、その理由は、左翼的で進歩的なフェミニストたちがポルノに反対する理由とは真逆なものと言えます。文化的 宗教的 政治的に保守的な人々は、性的な表現について、アメリカの伝統的な正しい家庭、あるいは「伝統的家族観」と呼ばれる価値観に対して悪影響を与えるものだと考えてきました。すなわち、性的な表現がフェミニズムを促進するとみなしたのです。性的な表現が自由になされることによって、主婦や母親たちの伝統的な役割に影響を与え、女性の権利拡大に繋がり、政治的 経済的に女性がより活動的になることを彼らは恐れました。ゆえに彼らは。「性表現は危険であるから、政府が取り締まるべきだ」という主張に賛同したのです。


「出演による虐待や搾取」「影響による暴力の助長」の論点


ミンチェバ:
 
極右と左派との奇妙な同盟関係でしたよね。
 さて、この本では、それまでポルノ反対派の担い手としては言及されることの少なかった、フェミニストたちについても取り上げています。宗教右派が長いことポルノや性表現、女性の解放に反対してきたのはよく知られています。でも ここではそうではない主体、それまでは私たち自由を求める側の仲間だった人たちが登場します。そうしたポルノの規制に賛同する人々は、今も90年代の運動の時と同じ主張をしています。ポルノ作品に出演する女性が虐待や搾取の対象となり、女性に対する暴力や差別を助長するという批判です。それにはどう答えますか?

ストロッセン:
 
まず強調したいのは、言うまでもなく、私が、生涯を通じて、確固としたフェミニストだということです。ポルノの表現の自由を擁護していてもです。私にとって最も大切なことは人権です。すべての人間が、性別や性的指向などに関わらず、平等であり自由であることです。だから私は女性の権利を強く支持しますし、暴力や性差別には反対します。もしも、いわゆる「ポルノ」のような性表現が、女性に対する暴力や差別を助長すると信じるならば、私は真っ先にポルノを糾弾していたでしょう。しかし ポルノの弾圧は、女性の権利に良い影響よりも、むしろ害をもたらします。

 性表現の弊害としては、女性の安全や平等、尊厳の観点から二つの問題が指摘されていますが、これらについて検討していきましょう。

 一つ目は、性産業的な作品に出演する女性たちに発生する被害の問題です。もちろん彼女たちが虐待や搾取の対象となったり、暴行や嫌がらせを受けることはあり得るでしょう。でも残念ながらそれらは全ての職種の女性と男性に起こり得ることでもあるのです。虐待や搾取の被害に遭う人は一定数いて、だからアメリカでは、そういった虐待などを防ぎ被害者を守るために、労働安全衛生法などの法令が整備されてきました。

 ある種の職業を違法にしてしまうと、地下に潜ってしまうことになるので、法令によって労働者を守ることができなくなります。ですから 生活のためにそうした職業を選んだ人にはなおさら危険な状況に陥ります。ですから、ポルノの出演者も含む、あらゆる種類のセックスワーカーたちが、売春の犯罪化だけでなく、ポルノの禁止にも常に反対してきました。たとえそれがフェミニズムの名の下に提唱されたとしてもです。

 一方で私は、性表現の規制を望む人たちが、女性を侮辱から守ろう、平等を促進しようと、善意で行動してくれていることについては、大変嬉しくも思っているのです。しかしながら、エビデンスは一貫して逆のことを示しており、性的なポーズをとったり、性表現のパフォーマンスを行うことで生計を立てることを選択した女性やその他の人々が構造的に搾取されることになるはずだという主張を裏付ける確かな証拠はないのです。

 実際のところ、マッキノンやドゥオーキンをはじめとするポルノ規制を推進している人々がエビデンスと呼んでいるものは、単なる逸話に留まるものです。そして、その逸話ですら、破綻したものでありました。

 公聴会でポルノ規制推進派が1番目に呼んだ証人がリンダ・ラヴレイスでした。1970年代の古典的成人映画「ディープ・スロート」に出演した女優で、本名はリンダ・マルシアーノといいました。彼女が議会や本の中での証言によれば、悲しいことに彼女が受けた搾取と虐待は、他の多くの被害者たちと同様に、自分の夫から受けたものでした。女性に対する暴力の多くが家庭内暴力によるものですが、しかし私たちの社会はそれを理由に結婚を犯罪化はしません。

 彼女は映画「ディープ・スロート」の撮影においては、解放された安全な気持ちでいることができたと述べているのが事実です。作品に出演する合意があったのであれば、性表現の規制に賛成の人たちには、ここでも根拠がなかったことになるでしょう。

「ポルノに出演する女性たちは性差別や男尊女卑や家父長制の社会で生きてきたために洗脳されている、彼女たちは誤った意識の被害者であり、したがって子供と同じように保護されるべき存在だ」といった主張があります。私の本では、ポルノ規制を主張する論者たちの言葉を引用していますが、「女性は子供と一緒で、本来なら法的には性表現のある作品への出演に同意できない」と彼女たちは述べています。彼女たちはそれ以上のことも言っているわけですが、もし私の言葉を信じられないと思うのなら、どうぞ、私の本の引用脚注から原典に当たってください。彼女たちは「女性はセックスに同意できない」とも言っているんです。夫やパートナーとだけセックスしたいという場合でも、その女性たちは誤った意識の犠牲者だということです。私は、このような考え方は、女性の平等や自律、尊厳とは相反するものであると思います。

 性表現の悪影響として主張されている二つ目の問題について考えてみましょう。それは、性表現が男性を洗脳して、女性を差別したり単なる性的対象とみなしたりして、性暴力を行うように仕向けてしまうというものです。この本では、そのような主張を裏付ける根拠とされているフィールドワークからのデータや、相関関係を示す統計、ラボでの心理学的な実験に至るまで、あらゆるものを要約して紹介する章を設けましたが、実際のところ、そうした因果関係を証明できるようなエビデンスはないのです。

 その章では、日本やドイツや北欧など、当時、ポルノを入手することが比較的容易であった国々について検討しましたが、女性に対する性暴力と性表現との間に、相関関係は見られなかったのです。相関関係があっても因果関係があるとは限らないわけですが、そもそも相関関係すら見られなかった、ということになります。

 逆に、女性に対する暴力と差別が最も蔓延している国の中には、性的に露骨な表現が完全に禁止されている国もあり、多くの場合、死刑の対象となります。その良い例がサウジアラビアやイランなどのイスラム国家です。

 したがって、性的表現を規制することによって得られると主張されている利益、つまり、性的表現を見る男性による暴力を減らすことや、これらの作品に出演する女性の搾取を減らすという理由付けは、証拠に照らせばどちらも根拠がないということが分かります。

 繰り返しになりますが、自発的にそのような仕事で生計を立てることを選択した女性たちを否定することは、女性の自己選択を否定することであり、安全性を否定することでもあります。彼女たちが、違法化された枠組の中で仕事をせずに済む安全を否定することにより、利益よりも害を及ぼすことになるのです。そして、暴力の本当の原因からも目を背けてしまうことになります。

 表現規制を推進することのもう一つの深刻な弊害について指摘しましょう。規制を推進するフェミニストたちは、性表現が男性たちに性暴力を行わせたと主張しています。その理屈で考えると、実際に性暴力を行った男性たちの責任は軽減されることになってしまいます。私の本では、実際に性犯罪者が、裁判の中で性表現の規制を推進するフェミニストたちの言葉を引用して、自分に責任はないと主張した事例を紹介しています。規制推進側のフェミニストの中には、その主張に理解を示して、性的に露骨な表現をした者たちこそが責任を問われるべきで実行者であるレイプ犯を罪に問うことはできないとまで述べた人もいました。私には、このような主張は、女性の平等な権利と安全とに逆行するもののように思えます。

ポルノ規制が招く幅広い性表現の抑圧


ミンチェバ:
 反ポルノグラフィの考え方は、いわゆるポルノだけではなく、それ以外の性表現にも規制される危険をもたらすとあなたは指摘してきました。反ポルノグラフィを掲げるフェミニストたちが規制に同意しないような性質の性表現についてまでも、規制される危険が出てくるのだ、と。その指摘はとても重要だと思うので、もう少しその点について解説して頂けるでしょうか。ポルノの規制によって、どのように広い表現が危険にさらされることになるのか、そしてどのような人々がそのような規制によってもっとも弊害を被るのかについて。

ストロッセン:
 
まず、用語についての説明を少しさせて頂く必要があります。私は中立的に用語として「性的表現」とかその同義語を使ってきました。他方、規制推進側のフェミニストたちが「ポルノグラフィ」という用語を使用するのは、その言葉が著しい汚名を着せる意味合いを持っているからだけでなく。モデル法としてポルノグラフィの定義を思いついたからでもあります。規制推進側のフェミニストたちとしては、ポルノグラフィを猥褻とは別のカテゴリとして区別したかったのです。猥褻とは別の、憲法上保護されることのない、違法であるべき、性的表現の部分集合の定義である、というのがその主張です。

 それでは、米国、カナダ、その他の国の一部のフェミニストにとっての違法とされるべきポルノの概念から話を始めましょう。 基本的なコンセプトは、性的に露骨な表現または性的に示唆的な表現であり、女性を侮辱したり、品位を落としたり、人間性を奪ったりするような言葉や映像などを意味します。言い換えれば、女性の人間的地位と尊厳を何らかの形で損なうような表現ということになります。宗教的、文化的、政治的な保守派にアピールできる伝統的な考え方とは対照的なものと言えるでしょう。そちらは、社会の多数派のモラルに訴えかける猥褻の概念によって性表現を規制しようとしてきたからです。

 しかしながら、異なる性的表現の部分集合として定義したと主張されるこれらの概念は、私から見て、どちらも曖昧で主観的で広範なものでしかありません。

 規制推進側のフェミニストたちは、ポルノグラフィの「定義」として、品位を損なうこと、又は侮蔑的であること、又は非人道的な表現であると主張します。どのような性表現がこれらの概念に当てはまるものなのか、おそらくは2人のフェミニストの間ですら合意に至ることは不可能でしょう。

 政府やそれと同視できるような権力者にそれを解釈して執行する権限を与えたとしましょう。そうすれば、自分の敵対する人間に対して、それを当てはめようとすることでしょう。あるいは政治家であれば、人気取りのために、有権者や有力な支持団体にとって不人気な表現を選んであてはめようとすることでしょう。私たちは何度も目にしてきたはずです。こうした概念というのは、より弱い立場の者たち、より周縁にいる、より少数派の者たちに牙を向くものなのです。そして今日のアメリカ社会などでは、LGBTQや、避妊や中絶、生殖の権利を擁護する人々の言論なども、その標的となっています。また、アメリカでの猥褻の取締りは、女性や性的少数者に対して偏って行われてきたことが知られています。

 ところで、カナダがマッキノンの著書とモデル法を採用して、反ポルノグラフィ法を制定したのは、1992 年初頭だったと思います。この法律に反対していた私たちは全員、この法律の主なターゲットとして選ばれるのはフェミニズム系やLGBTQ系の書店になると暗澹たる気持ちで予測していましたが、バトラー対女王と呼ばれるカナダ最高裁判所の判決によって、悲しいことに私たちの予測は的中してしまうことになりました。カナダ全土の LGBTQ系の書店が捜査を受けて閉店を余儀なくされたのです。同じことがフェミニスト系の書店でも起こりました。また、反ポルノのフェミニスト自身の作品も標的にされるだろうと予測していました。これらの作品には、当然ながら生々しい描写が含まれており、場合によっては、批判対象であるポルノそのものを視覚的に再現するものも含まれていたからです。そして実際、ドゥオーキンの著作が国境でカナダ税関によって没収される事件もありました。

 こうした規制の標的となった本の例には、悲劇的なことに、偉大な文学作品、医療についての論考、人類学の研究、フェミニズム研究の古典を含む女性の健康にとって重要な本なども含まれていました。『私たちの体 私たち自身』は、繰り返し標的にされて、悪魔化されてきました。要するに、規制の危険から安全なものは何もないわけですが、重要なのは、伝統的な政治や文化の権力を持たない側の正義や主張を代弁する個人や組織の声は、特に安全ではないということなのです。


「表現の自由」の原則と例外


ミンチェバ:
 
先ほど、猥褻という法的概念についての言及があったので、性表現に関する法律についてお話をうかがいたいと思います。性的表現の規制にあたっては、どのような表現の自由の原則が適用されるべきでしょうか、またその理由について教えてください。

ストロッセン:
 
その問題について私が支持する原則の説明としては、まずはアメリカ合衆国憲法修正第 1 条が定める言論の自由から語ることになると思います。しかし、これらの原則は、世界人権宣言を通じて広く普遍的に支持されている原則でもあることを強調したいと思います。また、アメリカ以外の多くの国の国内法でもあります。これらは時代を超えて世界中で提唱されてきた普遍的な原則と言えます。

 修正第 1 条をめぐる論争は、この条文から、2つの基本原則を非常に上手く具体化させてきました。1つは表現規制が十分に正当化できない場合について説明し、もう1つは表現規制が十分に正当化できる場合について説明するものです。これらの幅広い一般原則は、米国では、性的表現にだけ唯一の例外を設けている反面、他のすべての題材、すべてのカテゴリの内容、メッセージの表現に適用されています。私は、ドイツやスカンジナビア諸国を含む他の多くの国で行われているのと同じように、こうした一般原則が、性的表現の場合にも適用されるべきであると主張しています。

 政府による表現規制が十分に正当化できない場合の原則を言い換えると、それは観点の中立性または内容の中立性に反する場合、ということになります。それが意味することは、政府は内容、観点、メッセージ、考え方について中立を保たなければならず、そうした表現の内容や観点に対しての恐れや嫌悪は政府による表現規制を正当化できないということです。コミュニティの大多数がその考え方をとても嫌っていたとしても、私たちはより良いアイデアで対抗するか、嫌いなものを無視することを選ばなければならないということです。

 政府による表現規制の正当化について説明する第2の原則は、明白かつ現在の危険の法理と呼ばれることがよくあります。ある種の言論行為は、その内容やメッセージだけでなく全体的な文脈に照らしたときに、差し迫った具体的で深刻な危害を直接的に引き起こす恐れがある場合があります。その場合には言論を規制することが認められますし、またその必要があります。アメリカ最高裁は、発生する可能性の高い暴力や犯罪行為に人々を駆り立てているように聞こえるか、又はそれを意図した扇動を行って、そのような暴力や攻撃の対象となることを誰かに恐れさせる真の脅威がある表現の中には、この明白かつ現在の危険の要件を満たすいくつかの表現類型があることを認めています。以上のように、アメリカでは現在、暴力表現や偽情報やヘイトスピーチなどの最も物議をかもすだろう内容を含めて、全ての言論が憲法によって非常に強く保障されています。これらの全ての表現は、その内容に対する嫌悪や一般的な危険性があるというだけでは、表現規制から完全に保護されることになりますが、しかし、その表現行為が明白かつ危険の原則を満たす際には、場合によっては処罰される可能性があるわけです。

 アメリカ法において、こうした表現の自由についての一般原則の唯一の例外は性表現です。公平を期すために述べると、性表現の大部分は憲法で保障されているわけですが、しかしアメリカ最高裁は、「猥褻」というラベルを貼った比較的狭いカテゴリを例外として区別しています。猥褻は3つの要件によって定義されており、その性的表現が3要件の全てに該当すれば、憲法上の保護から完全に除外されることになります。明白かつ現在の危険の要件に当てはまらなくても、誰かに危害を与えるものであることが証明されなくても、です。単に好ましくない内容という理由だけで、性表現が差別的に扱われていることは明白でしょう。

 アメリカでは、政治的に物議を醸す言論を非常に強く保護していますが、世界中の他の多くの民主主義国とは対称的に、性表現についてだけは非常に潔癖です。他の国ではヘイトスピーチや公務員への誹謗中傷について、アメリカほどには保護していない傾向がありますが、しかし性表現についてはアメリカよりも保護しています。そうした外国の人々は、アメリカ人がどうしてそこまで性表現だけを危険視するのかを奇妙に感じていることでしょう。


「表現の自由の原則」と「性表現」


ミンチェバ:
 
アメリカ社会において、政府コミュニティが、歴史的にもそして今日においても、性的表現の規制を考えるのはどうしてなのでしょう。彼らはそれをどのように正当化しているのでしょうか?

ストロッセン:
 
とても異様なことだと思います。それについて説明するために、ここで、猥褻に関するアメリカの憲法判決を引用したいと思います。アメリカ最高裁は1956年に初めて猥褻の要件について明確化し、ほとんどの性表現に憲法上の保護を及ぼす判断をしました。その判決理由には、とても魅力的な一節があったので、私は正確に覚えています。アメリカ最高裁は、人間の行動の偉大で神秘的な原動力である性は、時代を超えて人類の関心を集めてきたと述べたのです。確かにその通りで、洞窟の壁画や彫刻など、世界中の古代文明の中でも性は描かれてきました。こうした原子的な生命の力を表現することは、称賛されてきたことのように思えます。しかし、私がこの本の中で記述した1980年代から90年代にかけての米国においては、性が危険なことを引き起こすほどに強大な力を持つからこそ、人々はそれを批判したがるというパターンが見られたように思います。女性に対する差別や暴力を恐れるフェミニストであれば性をその原因とみなし、伝統や道徳の崩壊を恐れる文化的・政治的・宗教的な保守派もやはり性をその原因とみなすわけです。少なくとも私たちはアメリカにおいてそのような光景を目にしてきました。

 ところで、言論の自由について、政府や巨大IT企業やその他の誰かに委ねてしまうということは、とても危険なわけですが、その中でもとりわけ重要な表現があります。政治的言論という類型の表現で、世界中の裁判所も、民主的な政治体制において、それがもっとも重要な表現であると位置づけてきました。それは単に政治家を選ぶための表現を意味するだけでなく、公共政策に関係するすべての言論がこれに当たります。政府が国民に説明責任を負うことによって成り立つ民主政体においては、国民が公共政策を議論できることは不可欠だからです。そして、多くの公共政策が性の問題と関係しています。妊娠中絶や避妊、同性愛者の権利について考えてみてください。ジェンダーアイデンティティや、セクシャルハラスメントや、性暴力の問題もそうです。それらについて語ることは、すなわち性表現となります。他方、性表現は憲法修正第 1 条における本来の対象ではなく拡張的な領域に過ぎないとして伝統的には扱われてきたわけですが、それらはすべて公共政策に関係する政治的表現でもあるのです。そこには固有の重大な社会的論点が存在しており、それがアメリカ最高裁としても、性表現を二流の存在として扱うことをますます支持しなくなっている理由の1つです。私もそのような傾向が続くべきであると考えています。


「猥褻」と「表現の自由」


ミンチェバ:
 
先ほど、ポルノと猥褻とは違う表現類型であるという紹介がありました。そして猥褻表現については裁判所が法的な定義をしているという話がありましたが、その定義はどのようなものなのでしょうか?

ストロッセン:
 
これは非常に重要な質問です。まず性表現の大部分は修正第 1 条によって保護されています。修正第 1 条の保護から外すためには、そうした特殊なカテゴリの定義に該当することを、政府が証明する必要があります。アメリカ最高裁が憲法の保護から外した性表現には2つのカテゴリがあり、それらは修正第1条による保障を完全に否定されています。その内の1つがここまで説明してきた猥褻という表現類型です。アメリカ最高裁は1956年に猥褻を憲法の保護から除外しました。アメリカ最高裁による判例変更は1973年の一度だけで、保護から除外される猥褻の範囲について再検討を行って、3つの要件からなる定義を導き出しました。

 アメリカ最高裁には 9 人の判事がいますが、この時、猥褻を憲法の保護から除外することに賛成した判事は5人だけです。あと1人でも意見が変わればこの判断は維持できません。それ以降も、多くの裁判官が猥褻表現の除外について個別に強く批判してきたので、猥褻の取締りは、ますます施行されないようになりました。正式な判例変更があったわけではありませんが、そのような実務上の事情によって、猥褻表現はほとんど取り締まられないようになっていったということです。

 この3つの要件の第1は、その表現が好色的興味に訴えるものでなければならないというものです。アメリカ最高裁はこれについて、正常で健全な性的関心のことではなく、病的で不健全な性的関心のことであると説明していますが、この基準が信じられないほどに主観的であることが理解できるでしょう。第2の要件は明らかに不快を催させるものであることです。好色・明らかに不快の要件に当てはまるかどうかは、事件のあった地域における現代の基準から判断されることになります。そして、いずれも作品全体から判断されなくてはなりません。第3の要件は、私たち弁護士が学生時代に暗記のために頭文字を並べ替えて「SLAPS基準」と呼んでいたものですが、その作品に真摯(Serious)な文学的(Literary)・芸術的(Artistic)・政治的(Political)・科学的(Scientific)価値が欠けている必要があるというものです。この部分については、当該地域の基準ではなく、全国レベルの基準で判断されることになります。この国の一番偏狭で不寛容な地域の基準に基づいてではありません。猥褻の定義に該当するためには、この3つの要件を全て満たす必要があります。

「SLAPS基準」があることにより、政府が猥褻表現を立件することは、ますます難しくなっています。地理的に隔絶された不寛容なコミュニティの人々でも、インターネットによって多くの性表現に触れることが可能になったということもあります。検察官たちも、性表現を理由に有罪判決を得ることが事実上不可能になっていることを認識していることでしょう。例外は児童ポルノです。

 児童ポルノは、憲法修正第1条の保護から類型的に除外される2つ目の性表現です。しかし、児童ポルノは、非常に重要な点で、猥褻物と完全に区別することができます。児童ポルノは、観点中立性と明白かつ現在の危険の両方を満たしているからです。つまり、これらの一般原則の例外ではないのです。アメリカ最高裁は、憲法上保護されない児童ポルノについて、表現内容に着目するのではなく、制作過程で実際に出演して搾取・虐待される子どもたちに生じる直接的な被害に着目した類型として繰り返し定義をしてきました。つまり逆に言えば、たとえ児童ポルノと内容的には見分けがつかないようなものであったとしても、それがコンピューター・グラフィックス等の技術によって製造された仮想的なものであるならば、憲法で保護される表現ということになります。

 私の意見も同じです。児童ポルノとは出演に法的同意ができない未成年者を搾取した成果物です。それを永続的に流布させるような表現を、憲法上保護すべきではないことに完全に同意します。こうした理由であれば、憲法修正第1条の原則に例外を設けてしまうわけでもありません。

 さて、こうした非常に限定的な定義の猥褻や児童ポルノ以外にも、特定の文脈において、アメリカ最高裁が憲法上の保護を与えないと述べている他の種類の性表現がいくつかあるわけですが、それらはますますおかしなものになっています。猥褻と同じように憲法の一般的原則の例外となっている主な表現の類型としては、ラジオやテレビの放送メディアにおける、いわゆる「明らかに不快な通信」というものがあります。これは大変に古い事件にまで遡ります。というのも、アメリカ最高裁において最近、それが事件として取り扱われたことがないからです。コメディアンのジョージ・カーリンが、60年代と70年代に残した有名な「あなたがテレビで言うことができない7つの言葉」というジョークを覚えている人もいるでしょう。その中からいくつか例を挙げましょう。 Fuckが最も有名な例で、shitも該当します。これらはアメリカ最高裁が重要判例の中で例示している非常に危険な言葉たちです。仮に私が、こうしたアメリカ最高裁の訴訟について地上波放送で説明したとしても、これらの言葉はピー音で消されてしまうことでしょう. そして、放送局はこれらの言葉を放送することを許可したことに対して、非常に重い罰金を科されることになります。なお、まったく同じ内容の放送であったとしても、インターネットやケーブルテレビ、衛星放送であれば、それは憲法上の表現の自由として保護されることになります。ですから、ますます異様な例外となっています。なぜアメリカ最高裁が判例を変更しなかったのかはわかりませんが、しかしそれも時間の問題だと思います。


「ポルノグラフィ」と「表現の自由」


ミンチェバ:
 
今の話に照らすと、ポルノグラフィというのはどこに位置することになるでしょうか。ポルノグラフィには法的な定義はないわけですが、性についての不快な関心に訴えるものであることを理由に、猥褻に当たる可能性もあるのでしょうか?

ストロッセン:
 
ポルノグラフィについて話すのであれば、アメリカ法におけるポルノグラフィについての唯一の法的概念は、児童ポルノしかありません。ポルノグラフィという言葉は一般的に、合衆国憲法修正第 1 条、および私の知る限り他の国の法律においても、法的に意味のある用語ではないわけですが、規制推進側のフェミニストによる独自の定義としては 1984年にインディアナポリス市で可決された条例で実際に具体化されたことがあります。ACLUや他の言論の自由に関係する団体、それにアメリカ書店協会や、主流の出版業界、図書館などが団結して、すぐに裁判所に異議を申し立てた条例です。この条例は、連邦地方裁判所によって直ちに差止められました。第7巡回控訴裁判所の控訴審でも、アメリカ最高裁の上告審でも差止めの判断が維持されました。アメリカ最高裁としては非常にまれなことですが、この判断は略式による手続によって行われたものです。つまり、裁判所はこの問題が非常に単純であるとみなし、下級裁判所が正しく明快に事件を解決したと考え、弁論を開くこともしなかったのです。

 これはとても単純明快なことです。この問題について考えるときには、表現の自由についての重要な原則を思い出してください。アメリカ最高裁は、観点の中立性を、表現の自由の岩盤的な基本原則としています。フェミニストたちが違法化しようとしたポルノグラフィの概念は、まさにその観点中立性の原則に真っ向から反するものです。セックスのすべての描写を違法なポルノとするのではなく、女性についての特定の観点だけ、すなわち、女性に対する侮辱、品位の低下、または非人間化を伝えているとみなすものだけを違法化しようとしています。つまり、これは表現の自由の最も中心的な原則に対する典型的な違反です。そして、明白かつ現在の危険の原則についても満たされてはいません。ポルノグラフィとして違法化しようとした信じられないほど広範で漠然とした対象の性表現が、明白かつ現在の危険の要件を満たすといういかなる根拠も存在しません。この差止め判断の中には、非常に有名になったキーワードがあったことを覚えています。それは、精神の介在です。ご存知のように、あらゆる種類のポルノグラフィのインプットは、それを受容した人間の精神を通過するのであって、すぐに暴力を引き起こすわけではありません.

 規制推進側のフェミニストたちは、文字通り女性と子供を同一視しているわけですが、その人間性に対する見方は非人間的であると私は思います。そして、繰り返しになりますが、私の本の中で正確に引用したように、文字通り男性を犬と同一視する考えを述べています。男にポルノを見せるのは犬に人を襲うように命じるようなものである、と。

 ACLUの「女性の人権プロジェクト」は、この事件に関しての意見書を提出しました。同様の趣旨の主張をしたグループがもう一つあり、それはフェミニスト反検閲連盟からのものでした。私たちの意見書は、どちらのグループも、この条例が憲法修正第1条の表現の自由の原則に違反しているだけでなく、平等保護条項に基づく男女平等の原則にも違反していることを主張していましたが、裁判所は修正第1条を理由に条例を違憲とする判断を下したため、平等保護条項の問題にまでは言及することはありませんでした。ところでこの事件は、ルース・ベイダー・ギンズバーグが「女性の人権プロジェクト」を設立してからわずか数年後のことでした。彼女はその時には裁判官となっていたため現役のプロジェクト責任者ではありませんでしたが、これらのポルノ禁止条例については強く反対していました。意見書では、女性と子供、男性と犬を同一視するような法令は、人権にとっての進歩とは到底いえるようなものではないことを強調しました。


性表現をめぐる近年のアメリカ最高裁


ミンチェバ:
 
アメリカ最高裁の判例について言うと、修正第1条の解釈は常に展開してきたと言えます。現在は21世紀ですが、猥褻表現は未だに犯罪です。今後、猥褻表現の規制はどのように展開していくことになるのでしょうか? 猥褻として表現の自由から除外される表現が拡大することもあり得るのでしょうか? あるいは児童ポルノの定義を拡大するような議論もあるのでしょうか? 未来はどのようなことになりそうなのか、現在の傾向を教えてください。

ストロッセン:
 
9人の裁判官のうち4人が、猥褻の憲法保障からの除外を拒否した1973年以降、裁判所にその除外を止めるように求める試みが続けられてきました。しかし、ご存知のように、アメリカ最高裁は、どの事件を取り扱うか、どの問題について解決するかを、完全に裁量で選ぶことができます。そして、私たちの誰も知らない理由で、猥褻の除外を再検討して判例変更する必要があるはずの事件を取上げることを拒否し続けています。ですが、活動家として、私はいつも楽観主義者でありたいと考えています。まだグラスには水が半分も残っているということが重要なのです。表現規制を推進したい側は、猥褻として憲法で保障されない表現の範囲を拡大しようと何度も何度も挑戦をしましたが、アメリカ最高裁はそれについても拒否し続けてきました。

 例えば、Fワード(「喧嘩言葉」)に関連する事件について先ほども言及しましたが、これはベトナム戦争の時代に、軍の徴兵に反対するフレーズ ”fuck the draft(徴兵なんかクソ食らえ)” として用いられることが一般的だったのですが、それを理由に若い男性が実際に刑事訴追され、Fワードを含む声明入りのジャケットを着ていたことによって下級審で有罪判決を受けたことがあります。この有罪判決を支持する検察側の主張の一つは、これは憲法上保護されない猥褻な発言に該当するというものでしたが、上告審においてアメリカ最高裁はその主張を否定しました。アメリカ最高裁は、猥褻であると認められるためには、エロティックな興味に訴えかけるものでなくてはならないところ、この事件のような文脈でのFワードの使用はエロティックなものではないと言ったのです。つまり、性表現と政治的表現に重なりがあることに同意をしたのだと思います。公共政策についての言及であるならば、その表現は憲法によって保護されなくてはなりません。

 アメリカ最高裁が猥褻の拡大を否定したもう1つの重要な例は、特に未成年者が暴力表現に触れる場合です。リベラル派を含むかなりの数の人々が、暴力的な表現を非常に恐れて懸念しているわけですが、そうした暴力表現についても、猥褻の憲法保護からの除外を利用して適用しようという試みがなされることがあります。最近の例としては、アメリカ最高裁はカリフォルニア州の法律を無効にしました。この法律は他の多くの州法と同様、未成年者に暴力的なビデオゲームを販売することを禁止する典型的な法律でした。こうした法律は、学校での銃乱射事件が問題となって頃に立法されたものです。学校での銃乱射事件や銃による暴力の蔓延の原因がゲームであると本当に信じている人たちがいたのです。

 アメリカ最高裁は、児童ポルノに関しても、猥褻の定義として拡大することについては拒否しました。実際の未成年者の搾取の画像の配布は保護されていません。そうではなく、その概念を、仮想の児童ポルノにも拡張しようとする試みがありました。これは、ポルノとしては同じように見えますが、実際の未成年者の利用を伴わないものです。こうした仮想児童ポルノを禁止しようとする主な理由は、これを見た人々を、子供に対して暴力を振るったり、性的な働きかけをしたりするように刺激するからといったものでした。アメリカ最高裁がこうした理由付けでの児童ポルノの定義の拡張を否定したことは、明白かつ現在の危険と観点中立性の両方の原則を堅持するものです。児童ポルノを憲法上保護しない理由は、児童ポルノがそれを見た人の心に与える潜在的な影響とは何の関係もありません。児童ポルノを憲法の保護から除外することを正当化する唯一の理由付けは、実際に出演させられる人の実在する心身を守ることなのです。

 それから、放送における品位の概念に関して、もう1つの例に言及させてください。ご存知のとおり非常に時代遅れなものです。20世紀半ばに採用されましたが、当時から既に物議を醸していました。それ以来、時代とともにますます物議を醸すようになりましたが、少なくともアメリカ最高裁は、他の新しいメディアにおいても不品行・不快な表現を禁止しようとする政府の試みを繰り返し拒否してきました。政府がそうした表現を非合法化しようとする試みは、ダイヤルアップ・ポルノの問題として電話回線に関して事件化しました。アメリカ最高裁は、憲法上の保護が完全に守られたケーブルテレビのケースの時と同じ理由を用いて、インターネット上のそうした表現についても一貫してアメリカ最高裁の全員一致で保護をしてきました。残念ながら地上波放送についての判決をまだ覆していないことについては先ほど紹介しましたが、それを他の新しいメディアにも拡張することについて拒絶したのです。そうした新しいメディアで表現可能な状況にも照らすと、このような性表現に対する既存の制限は、ますます異例なものとなりつつあります。これは性表現以外の他の物議を醸す不人気な話題の扱い方と対照的であるだけでなく、性表現の中でもとても狭い範囲の異例なものとなっていると言えるでしょう。


性表現をめぐる近年のアメリカ社会


ミンチェバ:
 
そうした中でも、法令によって、あるいはコミュニティからの圧力によって、米国では猥褻やポルノを抑圧しようとする試みがありますよね。最近のいくつかの例について教えて頂けるでしょうか。

ストロッセン:
 
ご存じのように、アメリカ自由人権協会 (ACLU) のモットーの1つが、トーマス・ジェファーソンの言葉とされる「永遠の警戒は、自由の代償である」です。ジェファーソンが本当にそう言ったかどうかは誰にもわかりませんが、その言葉は真実です。性表現は、フェミニストや文化的保守主義者など、左翼と右翼の両方から悪者扱いされ、抑圧の標的にされ続けています。最近の事例では、幼稚園から高校までの教育課程や、公共図書館、学校図書館におけるLGBTQ関連の書籍やその他の表現に焦点が当てられています。全米反検閲連盟、アメリカ図書館協会、PENアメリカなど、これらの動向を調査している団体によって報告されているように、書籍の禁止が流行しています。全国の多くの州で、特定の図書館や図書館員が個別に攻撃されるだけではなく、立法活動を通じて、これらの種類の本をポルノグラフィと呼んで攻撃を呼び掛けていることが明らかになっています。猥褻の場合には、汚名を着せる言葉というだけでなく、実際に言論が違法であることを意味する言葉だからです。いくつかの司法管轄区では、地元の検察官に対して、地元の図書館員を猥褻罪で起訴するよう求める苦情も寄せられています。選書された文学賞などを受賞している評価の高い本に、性表現が含まれていたことが理由です。LGBTQのセクシュアリティを恐れている保守的なコミュニティで評判の悪い本が、こうしたターゲットになっています。いくつかの州では、可決されるかどうかはわかりませんが、セクシュアリティに関する特定の観点の表現を明確に犯罪化する法案の成立を本気で目指す動きもあります。インディアナ州で議論となっている法案のようにです。通過しないことを願っていますが、前回に私が見たときには、例え真摯な教育的価値があったとしても、公共図書館にそのような性的内容を含む本を置くことを犯罪化するという条文でした。救いは、その法律が可決された場合でも、法廷ですぐに異議を唱えられることです。また、インディアナ州かと思いますよね。インディアナポリスでのフェミニストたちの反ポルノグラフィ法も、すぐに異議を申立てられました。したがって、修正第1条は実に役立つ安全装置です。でも、ご存知のように、すべての図書館員や学校関係者が修正第1条の原則を認識しているわけではなく、トラブルを避けることしか考えられないかもしれません。それに猥褻表現やポルノを子供たちに提供していると自分が非難される状況を想像できますか? それは身も凍るような恐ろしい状況となるでしょう。物議を醸す資料など入れたくないと思うようになるのも自然なことです。それは、間違いなく脅迫として機能し、容易に自己検閲に繋がることになるでしょう。

 左派からも、表現への過剰な抑圧が続いていますが、ここでも私はそうした抑圧を主張する人たちの目的については支持します。平等と尊厳、そして、女性の安全という目標については心から完全に支持するつもりです。性的暴行やセクハラに抗議するMeToo運動の目的も支持します。しかし、あまりにも振り子の幅が大きすぎるのです。性的な内容や意味合いを持つ表現を、それを無神経だと感じたり、不快に感じたりすることもあるでしょう。でも、それを性的虐待や性的暴行と同一視して扱うのは行き過ぎです。そして、私たちは、キャンパスでもこのような例を見てきました。性的なテーマに関する重要な議論に関してさえもです。長年、法学部の教授を務めてきた私にとって、本当に痛ましく感じる例の1つは、刑法学の教授たちが、レイプという非常に重要な犯罪について教えられないと感じていることです。なぜなら、そのような性的側面だけでなく暴力的側面もある言葉に触れると、学生からそれによって侵害されたと感じると言われてしまうからです。その言葉によって傷つけられたと感じてしまう人たちがいるのです。言葉自体が暴力であると。このような言葉の抑圧は、言論の自由を侵害するだけでなく、女性の平等を損ない、女性の平等と安全を守る努力を阻害していると思います。重要な目的を達成するどころではありません。今起きていることは、あらゆる方角からの世間の目の問題です。教員や司書が自分の仕事に自信を持てず、カリキュラムや図書館にある本に対して法的責任を負うことになるのかどうか分からないという、巨大な危機だと思います。これは本当に危機的なことです。そして、たとえ法的には勝てたとしても、コミュニティで除け者になってしまう可能性があります。特に小さなコミュニティでは、この傾向が顕著だと思います。


インターネットの普及と性表現


ミンチェバ:
 
1995年にあなたがこの本を書いたとき、インターネットは存在してはいたものの、まだ黎明期だったと言えるかと思います。インターネットが普及したことにより、オンラインのポルノも増えていったわけですが、このような技術の発展によって、あなたの意見に変わったことはありましたか。私たちが猥褻について話すとき、コミュニティという概念そのものも、それは例えば世界中の数十億人のユーザーのことであったりするわけです。そこでは何が起こっているのでしょう。そして、インターネットの普及は、これまでの問題に対するあなたの考え方にどのような影響を及ぼしていますか?

ストロッセン:
 
憲法修正第1条の原則というのは 現実社会にしっかりと即して適用されるものです。それが特定の状況でどう適用されるか、具体的事実に即した運用がなされるのです。ですから私は、インターネットにも他の通信媒体とまったく同じ原則を適用します。これは、アメリカ最高裁の考え方とまったく同じです。アメリカ最高裁は、憲法修正第1条がオンラインでどのように適用されるかについて初めて判決を下した歴史的で画期的な事件においても、まさにそう判断しています。驚くことではありませんが、興味深いことに、この最初の事件は性的興味本位の表現をめぐるものでした。これも、アメリカ社会では、そのような性的な表現が常に最も恐れられているからで、新しいより簡単に・より安く・より速く情報を広めることができる新しいメディアが登場すると、最初に成立する法律は、そこでの性的興味本位の表現を違法とするものになるからです。インターネットについても、オンラインの性表現を規制するための法律が最初に可決されました。案の定、議会がインターネットを知ったとき、ほとんど反対意見もなく規制法が可決されました。通信品位法と呼ばれる法律で、不品行又は明らかに不快な表現を広めることを犯罪とするものでした。

 アメリカ自由人権協会は、同じ意見の団体を集めてそれを代表し、直ちに異議申し立ての訴訟を起こしました。この時もインディアナポリスの条例に異議申し立てをしたときと同じく、メインストリームの出版業界や、図書館協会などが集まってくれましたが、それだけでなく、そして非常に重要なことに、主要なゲイの権利団体や女性権利団体なども集まってくれました。悪者扱いされやすい性表現が、こうした団体の活動にとって特に重要であると考えられたからです。全米家族計画連盟もこの時にメンバーとして加わってくれた大きな団体の一つです。

 クリントン政権は通信品位法を支持していました。当時の司法長官はジャネット・リノでしたから、この訴訟はリノ司法長官 対 自由人権協会という形になったわけですが、幸いなことにアメリカ最高裁は9対0でこの法律を差止めてくれました。紙媒体や伝統的なメディアに適用されるのと全く同じ、もっとも強固な言論保障の原則がオンラインにも適用されるべきだとアメリカ最高裁は判断しました。クリントン政権やこの法律に賛成した議会関係者は、インターネットは言論の保障が最も緩い放送メディアと同じように扱われるべきだという、正反対の主張をしていました。アメリカ最高裁が放送メディアとオンラインを区別するために強調した要素の1つについては、それが本当に放送の特徴であるかどうかについて、今でも論争があります。しかし、アメリカ最高裁は表現の方法に着目して、「放送は家庭に侵入し、視聴者は不意打ちを受けて、何を見て何を見ないかを選ぶことができない」と述べました。インターネットはどうでしょう。積極的に何かを探し出さなければならないし、すぐに目をそらすこともできるわけです。もし、自分が肯定できない、見続けたいと思わないものが出てきたら、すぐに目をそらすことができます。つまり、利用者が選べるような設計をされているわけです。また、幼い子どもたちを、性的なもの、暴力的なもの、政治的なものなどの、ネット上の情報から守りたいという親は、ユーザー側でのブロックやフィルタリングを利用することによって、自分たちの子どもたちのために価値判断・価値選択を行うことができます。

 実態としても、インターネットは多くの点で反表現規制の議論を後押ししてきました。オンラインでの性表現の急増もそうした兆候の一つでしょうが、私の知る限り、その大部分は人々が自分のセックスを自発的に撮影して、オンラインに公開しているものです。

ミンチェバ:
 
まさにポルノ産業を破壊してしまうものですね(笑)

ストロッセン:
 
規制推進側のフェミニストたちは、これらの人々についても、自分の本来の意思でそうしているのではない犠牲者だと言うかもしれません。しかし、こうした人々の完全に無料での性表現が自発的なものだということは、そんなに驚くべきことなのでしょうか。彼ら全員が搾取の犠牲者であると言うのは完全にばかげていると思います。自分たちが他の人々のことを知らないだけで、現実は、私がすでに述べていたように、オンラインで非常に活き活きとあからさまな性行為をしている性的画像が急増し、多くの人々がそれらを作成し、出演し、受容している状況です。コミュニティを基準とするのであれば、これらの表現を明らかに不快とみなすことは、もはや非常に困難なものと言えます。


最後に


ミンチェバ:
 
とても興味深いお話なので、もっと続けたいところですが、そろそろ話をまとめなければなりません。最後の質問をしたいと思います。今日の状況を考慮して、あなたにとってももっとも希望的な予想はどんなものでしょうか。近い将来、性表現に関する法的および社会的制限の両方が変わる可能性はあるのでしょうか。あなたはどんな未来を期待していますか。

ストロッセン:
 
繰り返しになりますが、活動家として、私は楽観主義者であり、グラスには半分も水があると考えています。そして、その楽観主義にはとても大きな根拠があると思っています。なぜなら、アメリカ最高裁は、猥褻と放送品位の憲法からの除外を、完全に覆すことこそ拒否しましたが、それでも何十年もの間、それらの定義を拡大しようとする試みを一貫して拒絶してきたからです。したがって、性的表現やその他の物議を醸す表現に対するアメリカ最高裁の取り扱いの一般的な軌跡は、個人の自律性、個人の選択の自由をますます尊重し、特定の表現を見たり聞いたりしないことを選択したい人々に対して、一律に表現を法規制する以外の対応をすることを求める方向に進んできました。社会と文化との関係について言えば、性表現を含む、あらゆる種類の物議を醸すエッジのとがった表現が、今でも継続的に行われています。

 政府による規制の問題については、私は非常に自信を持っています。修正第1条によって差止められるはずだからです。それに、私たちの文化には、性表現の自由を守りたいという非常に強力な勢力が存在していると思っています。そうした精神は、驚くほど成功したLGBTQの権利運動を推進するのに役立ってきた存在だと思います。考えてみれば、バラク・オバマやヒラリー・クリントンですら、大統領選挙に出馬していたときには、同性婚に反対していたのです。その時、トランスムーブメントは、まだクローゼットの奥深くにありました。法廷だけでなく、社会がいかに急速にこれらのムーブメントを受け入れるようになっていったかを思い起こしてください。確かに、最近のアメリカ最高裁の判決で中絶の自由は後退しました。でも、世論を見れば、共和党員も保守派もカトリックも、そして福音派の間でさえ、ほとんどの状況において女性が中絶を選択する権利を支持しているのです。私たちの文化はますます豊かになり、これらの問題についての非常に活発な議論をもたらしています。これは、性に関する表現の自由、性的イメージの表現の自由を積極的に支持することとも密接に関連しています。

ミンチェバ:
 
前向きなビジョンとお話をありがとうございます。とても濃密なお話でした。

ストロッセン:
 
ありがとうございました。


出演者プロフィール


ナディーン・ストロッセン
 
アメリカ合衆国ニュージャージー州出身。弁護士。ニューヨーク・ロースクール(NYLS)教授。1991年から2008年までアメリカ自由人権協会(NCAC)の会長を務めた。

スヴェトラーナ・ミンチェバ
 
ブルガリア出身。専門はアート分野における表現の自由。デューク大学よりPh.D(文学)。2009年から2022年まで全米反検閲連盟(NCAC)のプログラム・ディレクターを務めた。