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R5.5.3 ちょっとデリダの解説書

7:00起床。パン2枚食べ、バイトへ。17:30終了。夕飯を作り、片付け。ちょっと天使騒々。読書会レジュメ作成。

デリダの解説書をチマチマ読んでいる

デリダの解説書として有名だろうこの本を少しだけ読み進めた。今日は3章を読み終えた。
ここまで、デリダは徹底して言語について考えている。パロールとエクリチュールを対比して語り、前者に特権を持たせるロゴス中心主義を批判し、西洋哲学を脱構築するという理解だ。

ずいぶん前に『言語が消滅する前に』を読んだ。

どこでは言語が不可解なものとして語られている。なぜ言語がわかりきったものでなくなったのか。ウィトゲンシュタインとデリダのせいである。
かなり問題含みな要約をしてしまったが、こういう感じで言語に対するドクサを指摘し、言語観を掘り崩した哲学者として名前が挙がったわけだ。ウィトゲンシュタインの名前が挙がるのはわかる。しかし、デリダはわからない。脱構築というのを、こういってよければ概念操作のように考えていた私にとって、デリダが言語に対し、何かやったというように考えられなかったのだ。

しかし、高橋(哲哉による)デリダ(の解説書)を読んでいたらスッと理解できた。ありとあらゆるテクストに対し、ロゴス中心主義批判としてのデリダの姿が浮かび上がってくるかのようだ。2章で『プラトンのパルマケイアー』の話をしている。デリダの解説書ではこの話がしょっちゅう擦られるから、ちょっとパロールとエクリチュールの対比がこの論文特有のものだと思ってしまっていた。この二項対立は哲学全体を貫くものであり、あらゆるテクストに対して見出され、批判の対象となる。
そして言語のより根源へと思考を進めていくことにより、デリダの哲学がより洗練されていく。

私はこのように理解した。

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