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発言の責任と弁解とその責任

前半: どうしようもなく弁明したくなっちゃうんだ

「人間の行為とは、ほとんど果てしもなく責めを受けるものであり、世界の独立性を受け入れ、人間の先入見に支配されるということだ。」*1 という一文に思わずはっとした。発言はただその言葉の意味だけになく、常に何かしらの含みを他の人に取られてしまう。
 そもそもの話、意図のない発言などないのだ。字面通りの意味を受け取ってくれというのが日常会話ではありえない。そもそも発言の意味というものすら発言の含みの一種ではなかろうか。

あの一文をこのような形で受け取ろうとしたのには、最近ちょっと恥ずかしい思いをしたことがある。どうにもこのようなことが多いので、その原因を探っていたところ、なんとなく日常言語の性質故に仕方がないことだと気付いたわけだ。


まず、どのような恥ずかしい思いをしたのか。場所は私が所属している漫画読みサークルでの例会にて。

サークルで作る会誌の企画に、人にオススメの漫画を読ませてレビューし、そのレビューに対して推薦者がコメントをする、というものがある。もちろん漫画をレビューするために1シリーズまるまる読まさせられるわけだ。当然限られた期間のうちで締め切りに終われながら急いで読んだりもする。オススメされた方がさぞ大変だろう。

さて、ここにT氏がいる。1年半前に作った会誌の話だ。彼は自分がもっとも好きだという漫画を推薦して人に読ませたわけだ。そして、読んでくれたレビューを見て、「話読むごとに感動して動けなくなるのを繰り返しながら読んでいたが、今は5巻まで読み終わっている*2。」や「(タイトル)は1ページあたりの文字量が膨大で他の漫画の4倍くらいある。[……]みんなよく読んだと思う。労いたい。 」などとコメントをした。なんなんだコイツはと当時かなり怒った記憶がある。

そして時は現在へと戻ってくる。場所は新歓例会。私はその漫画を人に勧める彼にもう読み終わったかどうか聞いてみた。まだ読み終わってないらしい。そこで昔の記憶が甦り、ゲキ詰めをしてしまったわけだ。しかし、彼は謝意があるかないのか、反省しているかどうかもわからない曖昧な態度を取りつつ、「いや1話読むごとに放心しちゃって読み進められないんだって」などと弁解する。こっちがどれほど詰めても粘りに粘るものなので、私の方の神経も逆撫でされていきヒートアップしていく。

声が大きくなってきてしまったところで現役の会長に「新入生の前でゲキ詰めはちょっと」とたしなめられて、話は終わった。私の方もいまいち煮え切らないまま終わってしまった。私のも釈明をさせてくれ! というわけでこのnote。

私やそのT氏はどうしようもなく弁明したくなってしまうらしい。

*1 スタンリー・カヴェル、中川雄一訳, 2008年『哲学の〈声〉 デリダのオースティン批判論駁』、pp.142-143、春秋社 (原著"A Pitch of Philosophy: Autobiographical Exercises", Haarvard University Press, 1994)

*2 ちなみにこの漫画は全10巻である

後半: ただ理由を説明しているだけなのであって弁明しているわけではないんですよ

冒頭で引用した文はそういうわけで、どんな行動にも他人から責めを受ける可能性があるという必然性を教えてくれるわけです。言われんくてもわかっているわい! なんて言いたくなるわけですが、それを理解していたら次のようなことはしないでしょう。つまり、謝罪しないままにずっと弁明をしつづけてしまい、顰蹙を買うようなこと。

なんだか損するような気分になりますが、とりあえず怒られたら、その場でとりあえず謝っておき、ほんの少し間を置いてから、とはいえその日のうちに、実はこれこれこういうことを思っていたのですよと釈明すればいいと私は思っています。少なくとも一回は、私は反省していますと相手に思わせないと、そこから先に一切進めません。相手の溜飲を下げてから弁明しています。
しかしこれを使えばいいのは相手が目上の人間のときだけですね……。今回のような親しい仲ならそんなこと考えずに殴り合えばいいんじゃないですかね。

余計なことを言いました。忘れてください。
私はとりあえず相手に、いやあの時は申し訳なかった、今はこうやっているわけだから、と言ってもらえればよかったんだけど、そういうこともなく弁明が来たのでより大きな声が出てくる。

ところで、こうついつい弁明したくなってしまうのはなぜだろうかと私自身に照らし合わせて考えてみた。そもそも弁明するのは自分に罪がないと主張するときだが、どんなに主張しても失敗がなかったことにはならない。その失敗をまずは受け止めるのが最初である。弁明という行動に、この受け止めは含まれていない。

「口ではああ言ったが、心では言ってない」という弁明にどれだけ酌量の余地があるだろうか? 

いや、実のところ私は弁明などしようと思っていなかった。私はただ、あるがままに起こったことをそのまま語っているだけなのだ! 事実を陳述することに、ことの理由を説明することがどうして釈明だの弁明だの弁解だのと言われねばならないのだ! ――心の奥底でこのように叫ぶ声が聞こえる。

そのような心の声に、再び冒頭の一文が襲ってくるのだ! 「「人間の行為とは、ほとんど果てしもなく責めを受けるものであり、世界の独立性を受け入れ、人間の先入見に支配される」。この文章を読み当たり前だと思ったのなら、そのような意図が無意味なのはすぐに了解されるだろう!!

しかし、それでも尚、私たちは説明を続けてしまう。行為や行動に必然的に責めが起こることを。

「人間にとって行為や行動の必然性が耐えがたいものと化す[……]傾向があると考えるからこそ、オースティンのような人は、これほど執拗に弁解を論じるのだ。」*3

私は最近日常言語学派について論じているカヴェルという哲学者の文章を読んでいる。こういう風にここで話が繋がるとは思わなかったよ。本当はもっと哲学っぽい話をしてみたかったけど、私にその力がないので諦めた。

*3 ibid., p143

結びに

以上、弱い男の釈明でした。
必死に私なりに説明を繰り返して、新歓例会で大声を出してしまった理由付けをしてきたわけです。
つまり、私には新入生を威圧する意図はなかったんですよ!
でも大声を出してしまい、結果として萎縮するような新入生がいたかもしれない。実際にいなかったとしても、新歓例会という場であのような行動をするべきではなかったのです。あのクレームがどのような意図でされたかはまったく関係なく、責めをこのように受けるわけです。

終わり

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