アート・オブ・ノイズ『誰がアート・オブ・ノイズを…』ライナーノーツ(再録)

 トレヴァー・ホーンが妻のジル・シンクレア、ポール・モーリィと設立したZTTレーベルの第1弾アーティスト、アート・オブ・ノイズの登場は衝撃的だった。バグルズ「ラジオスターの悲劇」ヒット後、メンバーに誘われて、トレヴァーとジェフ・ダウンズの2人はイエスに加入。脱退したジョン・アンダーソン、リック・ウェイクマンの後任を務め『ドラマ』(80年)は傑作として完成するが、ツアーで古参信者からバッシングに遭い、トレヴァーは精神的に大きな痛手を負う。裏方に回って早々、プロデュースしたイエス「ロンリー・ハート」(83年)が初の全米1位のヒット。確かな手応えを感じたトレヴァーは自らのレーベルを立ち上げ、その第1の刺客として送り込んだのがアート・オブ・ノイズだった。イエス録音時には、すでにフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド『プレジャー・ドーム』の録音は並行して行われており、番狂わせの先行デビューとなったが、彼らがレーベル最初の顔となったのには意味がある。無意味な衝撃音「Zamg Tumb Tuum」から付けられたZTTのレーベル名、アート・オブ・ノイズのグループ名は、ともに20世紀の始めにイタリアで起こった美術運動「未来派」が起源。産業革命の余韻醒めやらぬ、重工業時代到来を告げる20世紀の初頭。工場の耳障りな騒音を美しいシンフォニーとして捉えた、イタリア未来派の画家ルイジ・ルッソロの『騒音芸術』(13年)という宣言書から取られたものだ。後にアンビエント、エレクトロニカなどの実験的なジャンルが、巨大な商業マーケットを築くことを考えれば、80年代初頭、ZTTとアート・オブ・ノイズが果たした役割は大きい。

 「レッグス」「ピーターガン」をヒットさせたZTT脱退後のメンバーの活躍ぶりを知る世代には、デビュー当時のイメージは想像しづらいかもしれない。当初は元バグルズのトレヴァーが立ち上げたレーベルの第1弾アーティストという触れ込み以外、一切の情報はなし。やがて、ブレインのポール・モーリィが露出し始め、2人が中心人物であることが公表される。全貌がわかったのは、ZTTからクーデターを起こした3人、アン・ダドリー、J.J.ジャクザリック、ゲイリー・ランガンが、チャイナ移籍後にマスコミに顔を公開してから。5人のうち、実際の演奏に関わっていたのは後者3人。しかし、曲題やアートワーク、解説文の大半がモーリィの作になる。アン、J.J.、ゲイリーは以前からトレヴァーの裏方スタッフだったため、アート・オブ・ノイズは、フロントマンのトレヴァーとポールの2人のグループと言っても問題はなかった。

 グループ結成の発端は、トレヴァーのスタッフとしてイエス『ロンリー・ハート』に参加していたゲイリーとJ.J.が、ドラムのアラン・ホワイトの叩くサンプルのループで遊んでいたことに始まる。ゲイリーはサーム・ウエストのエンジニア、J.J.は元クラリネット奏者で、ジェフ・ダウンズのアシスタントを務めていた。そこでの試作品にトレヴァーが興味を示し、作曲家としてアンを紹介してサウンド・メーカーの布陣が揃う。そのときメンバーが取り憑かれていたのが、80年に豪州で発売された世界初のサンプラー、フェアライトCMI。イエスのドラマ・ツアー(80年)、バグルズ『Adventure In Modern Recording』(81年)から使われ始め、イエス「ロンリー・ハート」のショッキングなオーケストラ・ヒットで知名度を上げる。サンプルの切り貼り(8トラック)で作曲する、ページRという独自のシーケンス・モードを備えており、これが「ヒップホップの元祖」とも呼ばれるアート・オブ・ノイズの音作りに大いなるヒントを与えた。ゲート・ドラム、古いジャズのレコードなど“ノイズ”で音楽を構築できることから、J.J.の発案でグループ名をアート・オブ・ノイズと命名。ポールがレーベルのために用意していたZTTと、モチーフが重なったのは偶然らしい。

 トレヴァーのスタッフとして参加した、マルコム・マクラレン『Duck Rock』(83年)で、メンバーはマルコムの言動に啓発を受ける。収録曲「バッファロー・ギャルズ」は、NYブロンクスの黎明期のヒップホップ・ムーヴメントを初めてメジャーに紹介した曲。「ビート・ボックス」が最初にブラックチャートで受け入れられ、後に808STATEがトミー・ボーイからリリースされることを考えれば、彼らのサウンドがウケる可能性は、最初から米国のほうが大きかったのだろう。

 サーム・ウエストでの初期の録音実験は、今回、日本盤のボーナストラックに収録された「Resonance」「Memoly Loss」のような、思いつきのアイデアから生まれたコラージュ曲が主体。その中のひとつ、「ビート・ボックス」の原型である「One Made Earler」が、著名デザイナーのビル・ワトキンソンらを招いたサーム・ウエストでのパーティーで披露される。こうした取り留めのない断片を、一つのコンセプトに収束して形を与えたのが、ZTTの創立メンバーだったポール・モーリィ。77〜83年に音楽紙『NME』に寄稿していた、悪名高きジャーナリストである。彼が思想、アートワーク、曲題を担当し、アート・オブ・ノイズは5人目のメンバーを迎えて始動するのだ。「ストーンズにおけるアンドリュー・オールダム、ピストルズにおけるマルコム・マクラレン」と、自らの立場を説明しているポール・モーリィ。わかってらっしゃる。

 グループは83年9月に、ZTTレーベル第1作として『イントゥ・バトル』を英国リリース。メンバーの顔を出さないというポールのアイデアにメンバーも共鳴し、ストラヴィンスキーの新古典主義のようなサウンドと、実体不明な物々しいアートワークでリスナーの前に登場した。おそらく「イントゥ・バトル」の題名は、イエス「レンズの中に(Into The Lens)」のもじりなのだろう。イエス「危機(Close To The Edge)」を引用した「クローズ(Close(To The Edit))」など、駄洒落タイトルはギャグメーカーのJ.J.のセンスだとか。ここで聞ける「ジ・アーミー・ナウ」(アンドリュー・シスターズのレコードのスクラッチ)のように、ジョン・アップルトンのようなユーモアの感じさせるもので、真に未来派にルーツを持つダダイストらしい。

 だが、100年戦争の英雄ジャンヌ・ダルクを描いたゲントの祭壇画が用いられ、ジャケットはポールによる挑発的な宣言文で彩られた。写真はダニエル・ダックスのアートワークを手掛けるAJバラット。後に写真家アントン・コービンも多くのモノクロイメージを提供するが、どれもゴシック色が強く、中世ヨーロッパの宗教戦争時代の自警団などを連想させる。アルバム『誰がアート・オブ・ノイズを…』の冒頭を飾る「タイム・フォー・フィアー」もまた、83年の軍事クーデターに端を発する米軍のグレナダ侵攻をテーマにしたもの。こうした右翼傾向はあくまでポール個人のモチーフなのだろうが、当時は「Into The Lens」→「Into Battle」といった曲題の書き換えも、イエスで辛酸をなめたトレヴァーによる、業界への宣戦布告のように思えたものだ。

 クラシック奏者出身のJ.J.、王立音楽院卒の才媛アンらが教養を捨てて、あえてロックンロール・スタイルを取っていたのにも、おそらく「未来派」の影響がある。反芸術主義を提唱したダダイズムは、言うなればパンクのルーツ。3コードの原始性を打ち出していたのは、ロックンロール・ルネサンスを標榜していたパンク志向の証だった。マルコム・マクラレンに大いなる啓示を受けたことから、本作も当初はマルコム『Duck Rock』に敬意を表して「Goose Jazz」を仮題としていたらしい(デューク・エリントン、コール・ポーターをカヴァーした日本の某ジャズ奏者のレコードを引用しているのは、その名残か?)。しかし、そうしたパンクから受けたユーモア精神から、ポール主導のアートワーク、コピーライトはかけ離れたものになっていった。

 アート・オブ・ノイズのキャリアは、第1弾シングル「ビート・ボックス」の米国でのダンスチャート1位の快挙から始まった。イエス「ロンリー・ハート」の1位獲得を振り出しに、ダンスフロアを狙った12インチシングル攻勢、過激なビデオ・クリップをオンエアしてMTVでの話題作りを先行するなど、国営放送主体の英国を無視して、あきらかに米国マーケットを狙ったプロモーションが展開された。こうした動きは、デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ上陸の追い風もあり、ビートルズら英国勢が60年代、米国チャートを占拠したあの時代の再来として、「ブリティッシュ・インヴェンションII」と呼ばれる流れを生んだ。続く米国での第2弾シングル「Beat Box(Diversion Two)」は、改題されてアルバムに収録される、後の「クローズ」。映像作家のズビグリニエフ・リプチンスキーが撮った、チェンソーで楽器を破壊する物騒なビデオ・クリップが話題を呼んだ。

 そこに満を持して発表されたのが、本作『誰がアート・オブ・ノイズを…(Who's Afraid Of…)』である。日本では英国産らしく、マザーグース風の邦題で紹介されたが、多くのファンを抱える米国リスナーには、有名なオフブロードウエイの戯曲『ヴァージニア・ウルフなんてこわくない』(Who's Afraid Of Virginia Woolf?)を連想させたに違いない。ケネディ政権下に、ピューリタン的な旧価値観に向けて、不条理な笑いと冷徹な視点で米国の暗部を暴いた、エドワード・オールビーの62年作品。連射砲のように意味深な言葉を浴びせかけるこの会話劇のイメージが、正体不明の黒船来港のような存在だった、初期アート・オブ・ノイズにはむしろ相応しい。

 英国での人気にも火が付いて、テレビ出演のオファーが殺到するが、元々実態のない裏方のユニット。マーケティング担当として、ポールは『The Tube』、『Top Of The Pops』といった番組に、ジャケットを飾る中世風のマスクで出演させるなど、諧謔精神を発揮したが、ポールのメディアでの挑発的な発言は、やがてサウンド・メーカー3人との間に亀裂を生んでいく。『The Value of Entertainment』という85年のアンバサダー劇場でのZTTのショウケースが、実質的なグループのお披露目として準備されていたものの、直前に3人はクーデターを起こしてレーベル離脱。同年に音楽誌『Melody Maker』の取材で、J.J.が真相を告白。チャイナ移籍後の新作『イン・ヴィジヴル・サイエンス』(85年)が英国18位という、ZTT時代を上回るセールスを記録し、華々しい再スタートを飾った。以降、3人組となったアート・オブ・ノイズはユーモアを前面に打ち出し、なんとライヴまで挙行。名匠デュアン・エディをギタリストに迎えた「ピーターガン」では、グラミー賞を受けるという成功への道を辿ることになる。90年の活動休止後は、アンビエント路線のアート・オブ・サイレンス名義でJ.J.はソロ活動を開始。映画音楽作家として米国に移住したアン・ダドリーは、同じトレヴァーのスタッフ出身だったハンズ・ジマーと並んで、ハリウッド映画に欠かせない売れっ子となった。

 今回同時発売される『ダフト』は、『イン・ヴィジヴル・サイエンス』のヒットを受けて85年にリリースされた、『Into Battle』の数曲を加えた本作の拡張版。「ダフト(愚か)」とはずいぶん当てつけな題名だが、リリース時には残った2人こそ、初期グループの批評精神を継承する存在なのだと思わせたものだ。

(了)

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