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今週の出来事(4/25~5/1)

Random thoughts and head trip [Week. 112]

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今週の出来事を書いていきます。


4月25日(月曜)

共に回るためには…


4月26日(火曜)

異なるうごめき同士をつなげる時に必要になってくるのは、お互いのうごめきが持つうまくいくイメージというのをつなぎ合わせる。それが期待を発生させ共に回る原動力になる。分からないへの向き合う技術が養われていない場合、その異なるうごめきは今の喪失をイメージさせ恐怖になり、排除の対象になる。
なのでその媒介には技術がいる。そして、その意味は同じであってもそこに存在する技術を変異させることで、いずれ意味も変わる。


4月27日(水曜)

虚像をおいて共にまわり、現実を構築するということは同時に固さを得ることにつながる。固さを持って貫くという考え方も大事だが、その固さを理解して時に手放す、また柔らかくなるまで置いておくというのも重要である。それは美しくも心地よいうごめきを良きものとする考え方。
うまくすれ違うこと。不快な感覚は影響を与える割合が高い。人はコントロールできないが影響を受ける。すれ違うだけで影響を受けるからそれで十分なのだ。固さを自覚したら手放す。ただそれだけ。


4月28日(木曜)

異なるうごめき同士の媒介者になる、影響を与えるという行為は、やわらかさが重要である。が、実はこの異なるうごめきを流し込む時が最も媒介者自身が固くなりがちである。というよりも、ほぼ必ず固くなる。それを前提として考える。
固くなった時は、固くなっていることを認知して、評価をしない、判断しない、それらを手放し、ただその状況を体験観察して面白がるのみだ。何もしないことが重要である。が、媒介者になるということは、その固くなった状態で行動することが必要となる。その場合、固くなった状態でいかに柔らかくなり行動するのか、だ。そこの原動力としては、流し込んだ先に期待をもつことなのかもしれない。異なる現実を持ったうごめき同士は、力の流れや向きが異なる。なので、流し込む側にあたるうごめきは、流し込まれる側にあたるうごめきと同じ向きに曲げるのだ。そうすると、異なる円環を描くうごめきは混ざり合い出す。そして、その円環の重なりは一周して、流し込まれた側のうごめきの流し込まれた部分の反対側が流し込んだ側のうごめきに自然と流れ込んでいく。これは、流し込まれた側のうごめきが流し込んだ側のうごめきの流れと同じ向きに曲がり出すことを意味する。そして自然と異なる流れの円環は共に回り出すのだ。つまり、最初に自らのうごめきを曲げて異なるうごめきの流れに流れ込んだ者が、媒介者になるのだ。そして、その曲がりは巡っていき、一周した先に影響を与え、流れが変異する。そして共に回りだす。異なりながらも共に回るのだ。そして、その変異を繰り返し続ける。これが美しくも心地よいうごめきである。つまり、異なるうごめきを流し込むとき、そのまま曲げずに流し込むと、うごめき同士はぶつかる。このぶつかりが争いになり、異なる視点が優劣の論理に還元され、どちらかに屈するまでぶつかり合うか、それに疲れ混ざりだすか、はたまた離れるか、になる。そうではなく、異なるうごめきを流し込み、影響を与え、共にまわりだすには、ぶつかるのではなく、変異し、争うことなく繁栄することだ。なので、変異して流れ込むことが必要なのだ。ただ、その時必ず固くなる。なので、その固くなっているなー、と葛藤を感じるぐらいがちょうどいいのだ。この葛藤が、自分の大事な何かを曲げている感じが、結果的に共に回る未来へとつながる。その感覚が見えた時、人は恐怖ではなく期待を感じる。
そして流し込まれた方も恐怖ではなく、期待を感じるのかもしれない。それが共に回る原動力となるのだ。
期待を原動力とした共に回ることというのはこういうことなのだな。
恐怖を原動力とした共に回るというのは片方のうごめきの現実が優位になることが見られる。そこで優劣が生まれ、劣と認識されたうごめきは、優と認識されたうごめきの現実に従うこととなる。そうやって劣側のみが変異していく。これを迎合というのだろう。そこには、美しさを感じない。もしかしたら心地よさはあるのかもしれないが。それは一時の心地よさなのだろう。
根本的に美しくも心地よいうごめきになるには、共に回る技術、期待を原動力とした共に回る状況がいるのかもしれない。そのためには、異なるうごめきを流し込む技術がいるのだ。それは自分のうごめきを曲げることなのだ。葛藤を感じながら。では、流し込む技術とは?それは、例えば、引き算すること。相手の現実が見える範囲以外を引き算をする。そして、相手の触れているイメージ、感覚に近いもので見せる。また、相手の成功体験と抽象的レイヤーで同じに見えるものを置くこと、そのように変異するということ。そのように葛藤を感じながら曲げるのだ。ただし、それは従うことではなく、共に回るために流し込むことなのだ。確実に影響を与えていく、そしてそれは心地よく変異していくかもしれない。一周まわった先を体験観察するのだ。

4月29日(金曜)

共に回る技術をより具体的な媒介として表現するには、コレクティヴィズム、協働、共に作るという行為がいいのかもしれない。
既存のうごめきにはない、何かを共に作り出す。その行為を媒介にして、共に回る技術が養われていく。そこには、異なるうごめき同士の葛藤を介さずとも拡張できるような感じがある。それは期待を原動力としたうごめきだ。恐怖を原動力としたうごめきには優劣が生まれる。この優劣は美しさも心地よさも失わせる。期待を原動力とした共に回る技術が美しくも心地よいうごめきを可視化させる媒介者となる。そして、共に回る技術の媒介者として有効なのが、共に作る、コレクティヴィズムなのだ。

4月30日(土曜)

柔らかくなった時に、流れ込むのだ。 自己を曲げて流れ込んだ先のうごめきは、一周回って変異する。流れ込んだ先のうごめきでは、広い範囲で観察するのだ。変異を見つけた時、期待への材料となる。

5月1日(日曜)

地と図の反転。異なるうごめきに流れ込む時、流れ込むものは存在があやふやになる。元あったうごめきでの現実として見られにくくなるためだ。しかし、その存在があやふやになったものが流れ込むことで、流れ込まれたうごめきは、うごめきでの視点が変異する、という影響を受ける。これは、流れ込んだものがそのうごめきに取り込まれているように存在が揺らいでいるように一見すると見えるが、一周回ってそのうごめきに影響を与え変異させているのだ。それは、元にあったうごめきの特性を浮かび上がらせ意識化させているということだ。そのように、時間も遅れて、範囲も遠いところで、意識化、視点の変異という形で影響を与えているのだ。そしてその変異は元いたうごめきにも影響を与え、それぞれのうごめきの媒介者となる。そしてそのうごめき同士は共に回り出す。その時、うごめき同士の境界は顕在化されると同時に曖昧になるのだ。
そして、それはその媒介者になっているモノが宇宙技芸として、それぞれのうごめきを観念的ではなく感覚的に認識、感じ取れるようにしているのだ。
これのあり方は、共に回る技術の分からないとの向き合い方、影響を与える、の一つの技術である。自己の存在が揺らぎ葛藤を覚えるぐらいの状態で流れ込み、遅れてやってくる遠くの視点の変異を体験観察するのだ。
また、拡張体質的には、異なるうごめきに触れた時、固さが出てくる。不快なことこそ影響を受けるためだ。自己の存在が揺らぎそうになる、自己にとって大事なものを喪失しそうになる、というのは不快なのだ。これが固さである。目の前の分からないに今の喪失を感じた時、人は恐怖を感じる。
固さを感じた時は、拡張体質的には、その失いそうと感じる、自己の存在、自己にとって大事なものは、一旦全て手放し、曲げる。そして、振る舞いとしては、異なるうごめきをより深く聞く態度をとる。そうする中で、面白さを感じたなら、その時は柔らかくなっているということだ。その時、自己を取り戻し流れ込めばいい。また、面白さが出てこなかった時は、うまくすれ違えばいいのだ。それでも影響は相互に受けているのだから。
共に回る技術は、非常に膨大な技術になりそうだ。


振り返り

美しくも心地よいうごめきを具体化した器が共に回る技術だ。そして、共に回る技術をより具体化した器がコレクティヴである。協働、共に作る。この共に作るという活動が、美しくも心地よいうごめきを我々に想起させる。


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