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今週の出来事(4/11~4/17)

Random thoughts and head trip [Week. 110]

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今週の出来事を書いていきます。


4月11日(月曜)

アドレナリンデー


4月12日(火曜)

アドレナリン出した次の日は気分が落ち込む。具体的すぎるのだ。
しかし、そういう時に思いを馳せると一気に爆発できる感覚がある。バランスなのだろう。うごめきはコントロールできない。時々で粘度も変わるし色も変化する。我々はうごめきを観察して、どうやったらどう動くのか考えながら対応する。そして観察して、また対応する。これがうごめきとの向き合い方である。それは、未知数、分からないとの向き合い方とも捉えられるかもしれない。うごめきとの向き合い方は、共に回る技術なのだ。


4月13日(水曜)

あるレイヤーの現実は、そのレイヤーにいるモノそれぞれの振る舞いによって構築される。そしてそのレイヤーの現実は自己の視点から構築される。その視点から見た現実に合わせるしかないのではなく、自らものレイヤーの現実を構築する存在と認識する。影響を与えられるということを自覚して、現実を構築するのだ。目の前のレイヤーはそれぞれ異なる多層世界の住人がそのレイヤーで重なり、そのレイヤーの現実らしい振る舞いをしているのだ。
現実らしい振る舞いをする場が必要なのだ。それはテキストでは難しい。雑談というゆるゆるの余白のある空間にこそ、現実を構築する場が存在する。
うごめきは、粘度や色、力の流れは常に流動的に変化し続ける。コントロールできない。ただ、影響を与えて観察して対応するのみ。それが共に回る技術。

4月14日(木曜)

勝手に生きる、ということの重要さ。


4月15日(金曜)

うごめきは、常に性質と流れが変化している。コントロールはできない、影響を与えることはできる。影響を与え、観察し、対応するのみ。
そして影響を与えるということは、うごめきに何かを置くことであり、それはそのうごめきの現実をズラすこと。順序や法則などのルールを異なるものを置くことだ。そしてそれを映し出すことで、現実はズラされうごめきに影響を与える。その後を観察して、対応すること。この観察と対応にこそ時間をかける必要がある。


4月16日(土曜)

うごめきはコントロールできない。できることは、影響を与え、体験観察し、対応するのみだ。それがうごめきの向き合い方であり、共にまわる技術。
うごめきに影響を与えるとは、そのうごめきを構築している法則や秩序などのルールとは異なるルールを置くこと。それは、異なるルールを持った役割を媒介しておくことができる。そして、それによる影響と変化を体験観察して対応する。どうなるかは分からない、期待してもよいし、恐怖してもよい。ただ、観察し対応するのみなのだ。
また、役割を持った媒体は、異なるレイヤーのうごめきにも多層的に存在している。なので、異なるレイヤーのうごめきを持ち込み、両方のうごめきにとって異なるルールを持った役割を置く。それによって、二つのレイヤーは重なり、その境界に媒介者が存在する。結果的にその媒介者は、両方のレイヤーにおいて「よそもの」となり、個としての解像度が高まる。個別性が高まる。それは孤立なのか、それとも孤独なのかは分からない。が、その時、両方のうごめきに影響を与える個であることは間違いない。
美しくも心地よいうごめきとは、ビオトープのようなものなのだろう。
そこはうごめきであるし、個々は個々によって動かされるし、個であることを肯定されながら動き続ける。ビジョンなどは必要なく、ただ観察し対応しながら整理するファシリテーションさえあればよい。自己にとって違和感なくいられる個が集まり、うごめいている。そしてたまに、美しい偶然が流れ込む。
今の延長線上にある未来に人は期待し、今を揺るがす未来に人は恐怖する。
しかし、活性化することが持続性を持つと勘違いしたうごめきにおいては、期待は消費され、やがて忘れられる。持続性は循環に存在する。活性化は終わりを引き伸ばしているのであり永遠ではない。しかし、永遠が良いこととも言っていない。なぜなら、終わりに美しさは宿るからだ。それを受け入れた時に循環が生まれる。
今を揺るがす未来に向かうというのも一つの手である。恐怖に向かう。しかし、期待も恐怖も未知に対するとらえ方でしかない。恐怖はいとも簡単に機体へと反転する。
未知、分からないとの向き合い方こそ、共に回る技術である。そう考えるなら、うごめきはよく分からないままでもいいのかもしれない。

4月17日(日曜)

共に回る技術は、分からないとの向き合い方、うごめきとの向き合い方と定義したが、もしかしたらそれとは異なる技術もあるのかもしれない。
異なるうごめきを近づけ、両方のうごめきにとって異なるルールをもった役割を媒介にしてうごめき同士を重ねる。それは、うごめきの中で、異なる存在として媒介者の個別性を高めることとも言え、それは影響を与えるということ。そして変化を体験観察し、対応する。それが分からない、うごめきとの向き合い方。コントロールはできず、ただ影響を与え観察し対応するのみなのだ。影響を与えるには、ただ異なるをぶつけるのではなく、既存のルールを読み替え、変異させ、戦わずして影響を与える、異なるうごめきで構築されたものは、違うものとして見えるので、丁寧に馴染ませる。などの技術が存在する。そして、体験観察するのは思いを馳せ拡張することである。
そして、共に回る言動力は期待や恐怖、未知に対する感覚なのだ。
では、この未知に対する感覚なしで、共に回る技術があるとしたらどうだろうか?
それが、今まで定義してこなかった共に回る技術。
粘菌は自己を認識し、家系を認識できるらしい。そして家系の中で協力したり、異なる家系と殺し合いをしたりするらしい。動物の社会性だ。
また、粘菌はその生息圏において栄養が豊富で安心して暮らせる間は、単細胞状態でバラバラに過ごす。ただ、栄養が欠如して、ストレスがかかった時には、近い存在同士で集まって、多細胞生物になりキノコ状になる。そして胞子をだす存在になるらしい。
生命の危機などの恐怖が、粘菌同志をくっつけキノコにするらしい。そのためには、強い接着と強い統制がいる。恐怖はこれらをもたらす。
しかし、この恐怖がない状態で、家系を認識するタンパク質を過剰分泌させると、粘菌はキノコになるほどの接着はしないが、異なる家系同士でもより集まって円形に一方向的に回り出すそうだ。これは共に回る原動力がない状態で共に回っている。そこにあるものはタンパク質だ。
では、もしかしたら人のうごめきにおいても、未知に対する感覚=共に回る原動力がなくとも、共に回る技術が存在するかもしれない。そして、なんとなくだがそれがうごめきに心地よさをもたらすのではないかと感じている。
それは、今のところの仮説では、音楽や踊りではないかと考えている。また、共に何かを作ったり、共に表現をする行為。などでもあるかもしれない。もしかしたら、そのような行為によって僕らは接着し、自他が曖昧になっているのかもしれない。


振り返り

少しずつ感覚が戻ってきたが、自分の社会が進むごとに自分の何かが蝕まれている感覚もある。


もやもや


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