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今週の出来事(4/18~4/24)

Random thoughts and head trip [Week. 111]

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今週の出来事を書いていきます。


4月18日(月曜)

くたびれた


4月19日(火曜)

開かれた


4月20日(水曜)

馳せてきた


4月21日(木曜)

共に回る技術とは、分からないとの向き合い方、異なるうごめき同士を接着する行為である。分からないとの向き合い方とは、既存のルールを読み替え変異させ、異なるルールを持った役割を媒介に影響を与える。そして、変化を体験観察し、対応すること。その姿勢、同じうごめきであっても(近くても)それぞれの世界を受信する感覚器はそれぞれ異なることを理解する。見えている世界、存在は異なる、だが生物は生存戦略として近い存在を家系として認識し、同種異家の存在と争う。その意識が異なる個を同質なうごめきにする働きになる。そこには、未知に対する感覚、恐怖や期待を原動力に回ることで生み出される。
その一方で、未知に対する感覚がなくとも共に回る技術が存在する。それが異なるうごめき同士を媒介者として接着させることだ。それは快楽という感覚を生み出す。それは、それぞれのうごめきにおいて、個としての存在を高めることであり、一方で自己と他者の境を曖昧にする。それらが同時に高まることが快楽を呼び起こす。媒介者になることが人の快楽であり、個としての自己実現に確立することでもあるし、曖昧にすることでもある。
つまり、うごめき同士の接着は快楽であり、分からないとの向き合い方によって心地よいうごめきを構築していく。これらの総体的な動きが美しくも心地よいうごめきを生み出すのかもしれない。
うごめきを接着させる媒介者になる行為、快楽を呼び起こす行為は、変性意識状態になることや、音楽や踊りを共に楽しむこと、その経験による期待を呼び起こしその行為の中で期待通りになること、また他種と食う-食われる関係感じることなのだろう。これらはうごめきの接着する行為である。その行為をする媒介者は、その役割のように振る舞うことで影響を与え、うごめきを流動的に変化させ、うごめきは生存していく。食う-食われる関係を築けない同種異家の関係が動物的には争いを生み出す関係になるのかも…?


4月22日(金曜)

より具体的になりながら終わりへと向かう。


4月23日(土曜)

頭の中の思考がどんどん現実世界へ影響を与えている。快感と恐怖が入り混じり、意外にも期待感がない。


4月24日(日曜)

うごめきとは、土壌のような組織のようなベース的な感じでありながらも、もう少しヌメヌメ動き回っていて漂ってたりもする。共に回る技術とは、捉えようのないうごめきの世界において生きていく処世術的なものであり、うごめきの世界観を映し出す器とも言える。そして、それらは全てコントロールできないことが共通しており、そんな中でも異なるルールを持った役割を持ち込み、影響を与え、体験観察し、対応し続ける。その繰り返しによって虚構は現実として存在し、現実を構成しているのは個々が共に回っていることによるということを認識する。それがうごめきの一つの側面である。そんな構造を理解し、いかにしたら美しくも心地よいうごめきになれるよう、共に回るかを考えているし、それが自分の終わらないライフワークである。コントロールできないから終わらないのだ。
そんなうごめきの世界観において、死生観とはどうなのか?ということをふと思った。うごめきは常に流動的でアンコントローラブルな円環である。それは終わりは新たな円環のはじまりであり、終わりなくうごめき続けているということだ。(この終わりとはじまりの余白に美しさがある、と思っているが)ということは、終わりがない。はじまりもない。永遠なのだ。果たしてそれがいいことなのか、悪いことなのかは全くわからないしどうでもいいことなのかもしれない。しかし、今の自分の感覚では、永遠な円環であることには違和感も感じる。永遠でいいのか?そんな疑問がある。
そもそもはじまりは認識の契機であり、はじまり自体は断定できない。そして終わりは認識の限界であると考えられるが、これも終わり自体は断定できない。つまるところはじまりと終わりは正確には定義ができない。では、生命の死とは何か?そして個としての自己とは何か?今の身体的な個としての自己も、自分の認識の範囲内にある身体的な自己でしかない。そこには、認識の契機と認識の限界があるだけで、自己のはじまりと自己の終わりは、境界線は断定できない。では、終わりとは何か?はじまりとは何か?そして個とは何か?それらがうごめきでは、影響を与える(表現する)ことで、曖昧になりながらも同時に個の存在が際立つ。では、死とは何か?うごめきは終らない永遠であり、個は死を持って完成するということか?しかし影響を与えるし、影響を受けるのか?認識はないから影響を受けないということか?つまり、影響を全く受けない状態が完全なる個ということか?それに人は期待し、恐怖する。曖昧な状態が生きるということであるなら、確立されることが死なのか。そしてそれらは同時である。よく分からなくなってきたが、そもそも終わりは存在するのか、はじまりは存在するのか、認識の範囲はどのようにして構成されているのか、そして相互に影響を与え続ける状態というのは永遠なのか、そこら辺を考えていくことになりそうだ。


振り返り

自分の思考が、自己の認識の範囲を超えた領域に影響を与えるというのは、快感であり、同時に恐怖を生み出す。
そして、影響を与える未来を想像したときには、期待を感じる。
認識と感覚はよく分からない。コントロールできない。共に回るのみだ。



もやもや。


【今週のPodcast】

アップ次第掲載します。


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