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今週の出来事(4/4~4/10)

Random thoughts and head trip [Week. 109]

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今週の出来事を書いていきます。


4月4日(月)

終わりを迎えると、はじまりがあふれ出る。


4月5日(火)

最近具体的な世界にいすぎて抽象の世界にいけてない。それがもやもやの要因だった。自分の人生は抽象の世界にある、という期待感で、今は駆動している。


4月6日(水)

アバばば


4月7日(木)

人は道具や技術を介して身体感覚を拡張し、存在認識や概念を拡張してきた。これから宇宙や無重力の世界、視覚と音の出力世界を介して価値観は拡張していくのだろう。
では、その先にある拡張とは何なのだろうか。
それはある領域において、自己と他者の境界が曖昧になる技術ではないかと思う。バンド演奏をしている時、それぞれの異なる個は、個でありながらも音を介して個々の境界は曖昧になる。どろっと。それが快感である。
共に回るには、最低限の回るための技術と中心に置く何かがあるのだろう。それが演奏においては、曲であったり、イメージであったり、好みや手ぐせであったり気分であったりするのだろう。
このぐらいの境界の曖昧さ、粘度で共に回るのが心地いいと感じる。
ビジネスの場面でも共に回ることはよく求められるが、中心に置く何かがお金であったりする場合、粘度が低すぎて、シャバシャバしすぎて心地よさが足りない。個の解像度が強すぎて共に回りづらくてイライラする。
インターネットの普及によって、世界観は大きく変わっているが、その一方でインターネットは存在コストが高い。出力していないと存在できない。
自他の境界が曖昧になる領域を物理的距離を超えて展開できる技術が生まれた時、我々の存在認識は大きく変化するのだろう。
それがugomekiの技術。とか言ってみたり。
TwitterではNFTを使ってデジタルアイデンティティを仮置くことができる。複数の個が一つの仮置きの個の振る舞いを操作し合った時に、また何かヒントが得られそうな気がする。

4月8日(金)

曖昧、分からなくなる。分かる、分ける。
期待感と恐怖は紙一重。先が分からないことへのイメージの違い。
分からないの先には、また別の何かを発見する可能性がある。分からないの先には積み上げてきたものを失う可能性がある。
分からないの先にはじまりを感じるなら期待となり、分からないの先に終わりを感じるなら恐怖となる。かも。
それはイメージの違い。
共に回る技術。期待感を共にする同士で自他が曖昧になりながら回る。
共に回る技術とは、分からないと向き合う技術。


4月9日(土)

未知数の先にはじまりやポジティブなイメージを感じた時、期待感が芽生える。未知数の先に終わりや喪失、ネガティブなイメージを感じた時、今日が芽生える。
そして自分の現在の構築世界の延長線上の未知数の先は期待感が生まれやすいのかもしれない。距離が近いのだ。そして見えている世界も近いから。
今まで構築してきたものを失うイメージが湧いた時、人は恐怖のイメージになる。今の構築世界の延長線上では、恐怖のイメージが比較的生まれにくい。
入口はそんなものだろう。しかし、本質的に拡張へと向かうには、距離の遠さは重要だ。距離の遠さに興奮するのが拡張体質。
共に回る技術の一要素は、未知数を共にすることなのだろう。未知数を共にして、それを原動力に回る。未知数の先に何をイメージするかも重要なのかな。というよりも、お互いがお互いにとって未知数であることを理解した振る舞いが重要なのかもしれない。


4月10日(日曜)

今、空間を共にしている相手は自分が見えていない世界にも生きている。目の前に見えている相手は、今同じレイヤーで存在している上での相手である。多層世界の重なりに人は存在しており、その重なりは一つのレイヤーの視点では捉えることができない。つまり、目の前の相手は本質的に分からない存在なのだ。
そして共にしているレイヤーでの現実は、そのお互い分からない存在同士が共に回ることで構成される。何を言いたいかというと、現実は自分の意志や行動で影響を与えることができる。自分は目の前の現実を構築する一要因なのだから。
そこに希望を感じたという話。

虚像のまわりを共に回る。共に回る原動力は期待や恐怖だ。どちらも未知数、分からないことが根源にある。分からないの先に今の更新を感じたら期待を感じるし、分からないの先に今の喪失を感じたら恐怖を感じる。どちらにせよ分からないのだ。分からないとの向き合い方。これが共に回る技術だ。分からないに何かをしてみて、観察し、対応する。
分からないのエネルギーをもとに虚像のまわりを共に回る。その円環的うごめきは、自己と他者の境を曖昧にし、現実を構築する。そして虚像は真実となる。
共に回る技術には、現実のように振る舞う、というのもある。振る舞うことで、現実はより現実になるし、真実は強固なものになる。この状態では、分からないが分かるに変換されがちだが、それは分からないとの向き合い方を歪める。その歪みが現実から抜け出せなくする力を発揮し、多層世界が一つのレイヤーに収斂されていく。この時にかつてあった心地よさと美しさは失う。
あくまでも一つのレイヤーに過ぎず、多層的に生きられる、また多層的な世界観で一つのレイヤーに影響を与えることで、心地よさや美しさは循環し続ける。
円環をズラす余白に美しさが宿る。そのズレは終わりともいう。


振り返り

自分が影響を与えられないと感じるレイヤーは苦痛に感じる。だが、このレイヤーの現実は自ら影響を与えられる、構築できると感じると、感覚が変わってくる。一つのレイヤーに過ぎないし、現実は自己や他者の振る舞いで構築されるのだ。


もやもや


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