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今週の出来事(1/24~1/30)

Random thoughts and head trip [Week. 99]

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今週の出来事を書いていきます。


1月24日(月曜)

生成された


1月25日(火曜)

テトラレンマの存在を考える。うーむ。


1月26日(水曜)

ぼーっとする。


1月27日(木曜)

馳せれないなー


1月28日(金曜)

テトラレンマってメタメタ認知だと思ったけど、メタ認知の反対の概念を置いてメタ認知を身体的に理解できるようにすることなのかな。
人は内と外に分ける性質があるのだとしたら、やはり認知するには二項対立を生み出すしかないのか。そして二項対立は二要因であることを知り、どちらでもある、グラデーションなのだ、と思考し、その逆の概念をイメージし身体的に理解する。そのループなのかな。わかったとわからないをずっと繰り返す。
それ自体が喜びと感じるのが拡張体質なのだが、その一方で終わらせるというのはつくるということなのかな、とかも思う。何かを作り思考を形にすることで、終わらせる。終わりは作ったものが出来上がった時。
人は内と外で分ける性質がどうしてもあるのなら、その性質がうごめきの中で生まれるタイミング、もしくはその前に終わらせる。つまり何かをつくることなのかもしれない。


1月29日(土曜)

無限増殖と無限循環。
終わらせることはできるのだろうか。


1月30日(日曜)

一と多。
現在、各方面で多様性の重要さが叫ばれる一方で、テクノロジーの方向性は一へと向かっている。そもそも多様性が叫ばれるのも、本来個々に異なる存在が一つへまとまる際におこる摩擦を減らすために言われているような感じもする。一へと向かっている過程なのか。
その一方で僕は一に向かうよりも、異なる状態のまま心地よく重なる多層世界に生きたいと考える。それは本来人は個々に異なる存在だからそうあるべきとか、それが自然であるとかの発想ではなく、ただ全体の一へと向かうのには何か違和感を感じるから、その他を見出したいのかもしれない。
一と多の関係性について考えると、思考が路頭に迷いだす。
意味を見出すとは分けることでもあるように思う。しかし、そこを突き詰めて考えると、分けた対象はどちらでもあるしどちらでもない、グラデーションなのだという思考に行きつき、ブレンド比率が重要なのだと考える。
この思考の循環は、多層的に重なりだし、無限循環となる。
全体の一に向かうのは、無限増殖のような感じがする。しかし、その一方で安心感を得て、機能的に生きる、幸せを追求しだすと一の思考に向かいだす気もする。そもそも僕は安心して生きなくてはいけないのか、幸せにならないといけないのかは疑問であるが。
少なくとも何処かで自分の一に向かいだし、運が良ければそれを見つけ実現するのであろう。しかし、重要なのは、その一は自分にとっての一であり、次の世代にとっての一ではない。変化がなければ目の前の状況を知ることはできない。その変化を知っているのは一を実現した自分のみ。それをそのまま受け継いでもそれは同じ一ではないから、抑圧と排他が強まる。
重要なのは自分にとっての一を見出すこと、とありきたりな自己啓発で終わらせてもいいが、それは無限循環へとつながる。
無限循環であること、無限というのは喜ばしいことなのか?それは分からない。少なくともその時点の循環を終わらせるには作品にして自分の思考から手放すしかないのかな、と思う。


振り返り

いかになめらかに手放すか?それは自分にとっての一を見出し、多なるうごめきとして美しくも心地よく生きられるのか?
リアルにほど近いところにあるフィクションから、異なる視点を得て、体験観察をする。そこにある喜びが心地よい手放しをもたらす。


もやもや


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