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今週の出来事(9/6~9/12)

Random thoughts and head trip [Week. 81]

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今週の出来事を書いていきます。


9月6日(月曜)

人とは状態である。うごめきを映しだすレンズなのだ。


9月7日(火曜)

ついつい


9月8日(水曜)

今日もついつい


9月9日(木曜)

営みとは思いを馳せられるだけの余裕を得ること。
その余裕を得るうごめきが共同体と呼ばれているものなのだろう。
共同体とは個と公の概念ではなくうごめきの概念で捉える。相互に存在を感じ影響を与え合った時点でうごめきなのだ。何かに属すカテゴライズではないのだ。お互いに余裕を享受し合ううごめきが営みなのだ。今まで自己の中とつながってる感覚を得られなかったレイヤーと自己がつながってきた気がする。これが社会とつながるということなのだろう。このレイヤーが自己を通して重なっていく、それこそが世界なのだ。


9月10日(金曜)

禁酒断念


9月11日(土曜)

問題はオルタナティブな視点を奪われることだ。


9月12日(日曜)

人は意味によってそのものを認知する。そしてその意味世界によって認知したものを表現することで具象化するのだ。表現した時点でそれは存在する。
しかしそのものは、純粋なそのものとして表現はできないのだ。人は意味によって世界を認識する生き物だから。どこかに世界を司どる視点があって、人はその中で個として生きるのではなく、人の世界を認識する視点があってそのうごめきによって意味の場が自己組織的に存在する。人も場も意味によって影響しあっているだけなのだ。そこには統治する視点は存在しないし、もしかしたら必要ないのかもしれない。うごめきの美しさを求める普遍的な価値観と、常に拡張変化し続ける美しさの重なりにより世界は変化していくのだ。
そうか。うごめきを表現することでうごめきは存在するのだ。


振り返り

単一の視点で統治される世界観は終わりを迎えようとしている。それが悪なのか善なのかではなく、ただその世界観は時代に合わなくなってきているのだ。美しさのように倫理観も変化していく。与えられた美しさだけで生きていく世界線は今の人の感覚には合わなくなってきた、ということ。
人は意味世界でそのものを認識し、表現することで具象化し、存在を生み出す。
その認識こそがうごめきであり、うごめきは影響し合い、さまざまな意味の場を生み出す。複数の意味の場を自己の意味世界を通してつなげていく、そのうごめきこそが社会とつながることであり、そのうごめきが波及することで世界とつながっていく。世界とはうごめきの重なりなのだ。世界の視点から個が統治されているわけではない。その認識こそがこれからの時代に合った世界観なのだ。
そして人はうごめきの美しさを求める。その美しさ自体は無限に波及し拡張変化していく。ただうごめきの美しさを求めるという価値観だけがその世界に普遍として存在するのだろう。
僕の思う美しさは、自分が見えていないうごめきに想いを馳せ、愛でる、そして拡張変化すること。その行為に生きる実感を得られるのだ。そして想いを馳せるにはそれだけの余裕がいる。その余裕を得る行為が営みであり、余裕を得ること自体は生きる目的ではない。
美しさとは生きる実感を求めること。営みとはその余裕を得る行為。
そんな感じ。



もやもや



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