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今週の出来事(1/10~1/16)

Random thoughts and head trip [Week. 97]

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今週の出来事を書いていきます。


1月10日(月曜)

理想的な未来を描いてしまった。それに向けて生きなくてはいけなくなってしまう。


1月11日(火曜)

実際に行ってそこのレイヤー、一軸多異に触れることで興味関心を得ることの重要さ。そしてその時に触れた情緒的イメージを表現し、また情緒的イメージを付与する。
1.01のかけ算だ。

未来へのあがきとは生命力だ。
生命力に従って生きる。
主体性を捧げる、そしてそこから生命力を得る。
その一方で常に2割は手放しておく。これがバランス。

突き抜けることも重要だが、突き抜けた後にバランスをとること。二要因だ。


1月12日(水曜)

一つの軸が多種にとっての全体として扱われている状態。
やはりつまらないな。


1月13日(木曜)

馳せてない


1月14日(金曜)

構築


1月15日(土曜)

馳せてられない


1月16日(日曜)

全てを包摂する正しさが存在するという認識は、ある種ヒトに安らぎや生命力を与えるが、その一方でその全てから外れる存在や正しさの濃度が低い存在に対しては排除、もしくは取り込もうとする力が勝手に働いていくと思う。そうして排他性と抑圧性は勝手に高まっていき、行き過ぎたところで崩壊する。多くの争いと犠牲を生み出しながら。
では、そうではない全体を包摂するものはなく、多層世界的な認識をした場合に争いや対立が生まれないかというとそういうわけではない。ただ、自らの存在はそれぞれの正しさなどを持ったうごめきが多層的に重なる集結点に存在していると認識することで、自らの正しさや正しいと思う世界は全てを包摂する全体ではないと実感しておくことが重要であると思う。それを実感可能にするのは多層世界的な認識だと思う。
自らの正しさを全体だと認識することの恐ろしさは、正しさの暴力性で容易に想像つくだろう。
別に絶対的な全体に包まれて安心を得なくてはいけないわけでもないし、幸福にならなくてはいけないという抑圧に従う必要もない。不安を持ち続けてもいい気がする。また逆も然り。
ただ自分が心地よい、美しいと思う認識で生きていけばいい。それは全体ではないと実感しながら。

お繕いていいな。穴の空いた服とかを補修するやつ。代用もそうだが、それはモノに意味を付与すること。意味を付与するとは、代用、お繕い、機能・情緒の付与、体験の付与などだろう。
ポスト資本主義についてさまざまな議論があるが、意味を付与することで回る経済、ミーニングエコノミーみたいなのも考えていきたいと思った。


振り返り

自分はやはり馳せてないとパフォーマンスが爆発的に落ちることが分かった。拡張体質へ。



もやもや



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