見出し画像

今週の出来事(3/7~3/13)

Random thoughts and head trip [Week. 105]

前回はコチラ→


今週の出来事を書いていきます。


3月7日(月曜)

朝、頭の調子が悪いなぁ。


3月8日(火曜)

修羅モード本格化


3月9日(水曜)

修羅、そして反抗


3月10日(木曜)

ボロボロのうごめき


3月11日(金曜)

余力だけで生きる


3月12日(土曜)

余裕がない時、人はガチガチの固体となる。この固さは、正しさの暴力を世に振り撒き、うごめきの心地よさを失わせる。余裕がない時は、液体になることを意識しよう。今の自分は液体だから、評価できない、選択できない、分からない、なのだ。それは固体になれる余裕が生まれた時にすればいいのだ。液体の間はただ観察するのみ、観察だけを楽しめばいい。


3月13日(日曜)

具体というのはもしかしたら固くて鋭い(薄い)と捉えられるのかもしれない。相反する要素の抽象は柔らかくて鈍い(厚い)のだ。
鈍い、厚い、、深い、とも言えるのかもしれない。具体に関しても鋭い、薄い、もしくは浅い。ただ何となく浅いはちょっと違う気がする。
ただ具体は固くて鋭いので、伝わりやすく影響も素早く与えやすい。抽象は柔らかくて厚いので、伝わりにくく、影響もゆっくりとしか与えられない。この、具体と抽象のバランス、均衡をいかにデザインするかで表現が変わってくる。
主題となる抽象よりもう少し具体的なのがイメージ、もう少し具体的なのが表現技術、さらに具体的なのが作品であるならば、作品とは抽象をこの具体的な世界へと表出させる媒介なのだ。僕らは具体的な世界で生きている。
具体的な世界とは、誰の視点でもないが合意形成の取れているコンセンサスリアリティと言える。具体的な世界は多層世界のひとつのレイヤーでしかないのだが、具体的な世界は他のレイヤーを見えなくするだけの鋭さをもつ。そして人は固くなり、うごめきも固くなる。
では、抽象的な世界はあるのか?抽象的な世界というよりも異なる具体的な世界が存在する、とイメージした方が想像しやすい。異なる具体的な世界は、誰かの視点の濃度が少し高く、合意形成が広く取られていないだけなのかもしれない。そうなってくると具体的な世界、視点の濃度と合意形成の広さのグラデーションを持ち合わせながら複数存在する。その複数の世界に多層的に存在するのが多層世界であり、その重なりに人は存在する。そして、その多層世界を人の中では抽象的に統合されている。抽象的な主題があるのだ。それをさまざまな具体と戯れながら表現し、具体的な世界に主題を表現する。
そして、ひとつの幸福のあり方としては、その主題に生きて主題を複数の具体で表現し続けること。そこには具体的な世界の理論でしか評価はされないのだが、主題に生きている自分としては、それも戯れでしかない。孤独のパラダイスである。
コンセンサスリアリティの中で、いわゆる優れた存在になるには、その具体的な世界の鋭さを磨き、強固な固さを持つことだ。それは標準化の極みとも言える。だが、心地よいのかは分からない。一種の美しさはあるように見えるが。
僕はコンセンサスリアリティに生きながらも、その他の具体的な世界にも生きたい。それぞれの世界を多層的に生き、その重なりには柔らかくて厚い抽象の世界に生きている自分がいる。だから多層的に生きられる。
この抽象は様々な具体に触れ、戯れる中で自分独自のものを発見すればいい。そうなると、その抽象を具体的な世界に出す具体的な技術というのも自然と自分独自なものとなる。どちらが先かは分からないが、コンセンサスリアリティとは異なる抽象や具体に触れ戯れることで自分自身の主題が見つかるかもしれない。生きるを感じるのは主題に生きることなのかもしれない。そしてその主題は誰かから与えてもらうものでも、仲間に入らないと見つけられないものでもない(少なくとも僕は)。主題とは、抽象の世界とは、自分自身が見つける孤独のパラダイスだ。


振り返り

余裕がなかったり、鋭く強固な正しさがぶつかってきた時、人は固くなりやすい。なので、自意識を液体化する。

迎合するわけでもなく液体として、
なめらかに、判断しない。
軽やかに、評価を手放す。
分からない、と戯れるのだ。

判断も評価も理解も、柔らかく厚い時に行えばいい。



もやもや


[今週のPodcast]


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?