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今週の出来事(1/3~1/9)

Random thoughts and head trip [Week. 96]

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今週の出来事を書いていきます。


1月3日(月曜)

重力と磁力の違いとは?

権威的な時間、迎合主義、傍観者であること、このうごめきは澱み誰もが見えない苦しみを抱えるうごめきになりそう。
重要なのは自分のゲームをすること、そしてそれも手放し拡張すること。呼応すること。このうごめきは美しくも心地よくなる気がする。
迎合ではなく呼応だ。この違いとは何か?

そうか。価値観のモジュール化、組み合わせゲームだ。

1月4日(火曜)

ビジュアルは多様性を感じさせてくれる。
都市多様性と自己組織化。


1月5日(水曜)

多なる異と一つの同(軸)。
これが一つの場であり、また場も多なる異と一つの同(軸)によって場として捉え、複層的に交わっていく。つまり複数の異を包摂する複数の軸が交わって複雑性を生み出している。
それは多元的でもある。
そして、そこがずっと同じ軸で進みすぎると多元性がだんだん一元性となっていく。なので、常にレイヤーを重ねていくかそれとも、終わらせる。
終わりは始まりでもあるので、また重なっていくかもしれないが、すでに終わっていることに僕はあこがれを感じたりする。
美しくも心地よいうごめきは、この複層的であれる状態。
そこを持続的にしていくと肥大化していくしかない。そして、それは遠くの視点が入ることで一元的な部分が大きくなる。
終わらせる、そしてその終わっているからこそ、遠い存在となりあこがれが生まれるのだ。
このあこがれを一緒にする人と仕事をしたい。そしてまた、終わらせればいい。
終わりは勝手にはじまりもうむ。


1月6日(木曜)

つながりではなく、重なりなのかもしれない。
多なる異と一つの同軸は認知の面となる。
これらが線によってつながる図というのが自律分散をあらわす図だったが、そうではなく面同士が重なる。そしてその重なりの部分の集積が点であり、これが立体的無重力空間での図になると面は線や軸のように見える。
元々、点があり線ができて、面が生まれ、立体があるのではなく、
元々、立体的無重力空間があり、面ができ線のように重なり、その集積が点のようになった。
重なりとは何かしらの多様性であり、それは都市多様性や生物多様性なのかもしれない。
そして重なりの中で生まれる機能や文化というのはうごめきである。
このうごめきとは自己組織化である。
コントロールはできず、コントロールできたと思うのは短期的であり、それはしばらくして美しさを失い息苦しくなる。
美しくも心地よくあるには、この重なりとうごめきによる多元性の存在を意識して自らのゲームをすることなのかもしれない。

日常時間を芸術時間に持ち込み、垣根を壊し、芸術を日常時間に持ち込む。
日常時間の裏切りだ。ここに僕はあこがれを感じる。
機能とは正当性の証明であり、言い訳だ。文化とは残りの2割。

真社会性にはそもそも王という概念は存在するのか?
人には見えていない重なりとうごめきがあるように思う。

AIがレベル4に達して浸透したとき、他責の概念はどうなるのか?
レベル4を理解するには、つながりではなく重なりのモデルで思考した方が近づきそうな気がする。

重なりでしかない。


1月7日(金曜)

速い反復と停止、ゆっくりなスライドによって日常を芸術領域へ持ち込む。
ハートとシステムとテクノロジーか。わかりやすい。
考えるのは、今の時代に求められているというその意識は、どのような組み合わせと重なりで形成されるうごめきなのか。
変化を求めるなら自分のゲームを、自己の変化に期待するのだ。
支配はできない、重なりと自己組織化だ。
多様であればいいということではない、どのようなうごめきになるかを考える。
単一的な視点でのカテゴライズではなく、複数の視点での個として認識しながら、重なりをデザインする。
永遠に終わらない無限影踏みと生命の有限性、そこに悦びを感じる。
都市多様性のある都会では、一元的な時間や大衆などの意識が全体を覆い、その中に多文化が存在しているような感じがする。
生物多様性のある中では、人と生物と場が複層的に重なっているのを感じる。その分、文化は一元的になっている感じがする。
どちらがいいのではなく、ただそういう、うごめきであるというだけ。
では美しくも心地よいうごめきとはどのような重なり(多様性)と、どのような機能と文化で生まれるのか。
機能は時と共に文化を形成し過去となる。終わることで歴史となり、そこに儚さなどの情緒性を見出せば憧れとなる。

体験によって興味関心は高まり、そこに知識がひっつき、体験知識ネットワークが生まれる。それが人のデータベース。
変化を持つには興味関心の強さが重要となる。
自分のゲームをしよう。


1月8日(土曜)

あこがれとは遠さと情緒的イメージの組み合わせによって生まれる。
遠さとは、距離的、時間的、事象的、階層的な遠さが存在する。(階層的な遠さは幻想だが)

美しくも心地よいうごめきの探求は、一同多異のレイヤーの組み合わせ、そしてどういう重なり(システム、テクノロジー、ハート)でうごめくのかを実験・研究すること。
だからコミュニティを作り続ける。
そして拡張体質とはこの多層レイヤーを軽やかに泳ぐことなのだろう。
ちなみにこの多層に上下はない。無重力で重なる存在をイメージする。

また、体験を伴う観察、体験観察を通して、情緒的イメージが結びつき興味関心が湧いてくる。そこに知識が引っ付いていくのだ。構築型の拡張。

主体性をどこに捧げるのか。近代的都市多層世界では、時間と大衆の中心のようなイメージ(全体と信じ込んでる世界の中心)に主体性を捧げるようにできてるのかもしれない。
生物多層世界では、身を寄せ合う一つレイヤーに主体性を捧げるのかもしれない。
後者の特性を持ちながら、都市多層性のない世界観は本当に息苦しい。無感動。
しかしそれも終わって歴史となり、情緒的イメージが結びつけば憧れとなるのだろう。

凡庸な過去も、歴史にすることで情緒的イメージを結びつけることが可能になる。


1月9日(日曜)

人はどこかに何かに主体性を捧げて生きているように思う。
かつては自らのうごめきに主体性を捧げておけばよかった。
しかし、ダンバーナンバーを超えた社会においては、ある幻想を共有しそこに主体性を捧げるよう仕向ける必要があったのかもしれない。まとまるためには。自己のうごめきに主体性を捧げるのはダサくて、うごめきを超えた何か大いなる全体の中心に主体性を捧げるのがイケてるみたいな価値観が主流化していっている。それは現代では、経済や自然科学に基づいた何かなのだろう。都市多様性のある社会ではそれがより顕著になる。別にそれが悪いことではないのだろうが。
しかし、単にその潮流が行き過ぎた段階において新たなパラダイムが求められてきているのだろうと想像する。
直線的なイメージと単数的未来を描く世界観から、多層的なイメージと複数的未来を描く世界観へと変化していっている。
また、そこに情緒的イメージが付与されることで芸術表現となり、人の感情や思考は変化していく。
情緒的イメージは視覚的、また文脈的な美しさかもしれないし、記憶を呼び起こす音や香りなのかもしれない。あらゆる感覚からもたらさられる情緒的イメージの探求がある種の表現活動になるのだろう。
そして、多層的イメージは、かつてあった自らのうごめきに主体性を置く価値観をさらに複数重ねていき、その重なりの集合点に主体を見出すのかもしれないし、多層世界を軽やかに泳ぐための超主体を構築するのかもしれない。いずれにせよ、主体性の均質化の時代は終わりを迎えつつあるのかもしれない。とはいえ、そこに到達するには、今自分に根付いている価値観や知性をアンラーニングできるかどうかにかかっている。アイデンティティをモジュール化し、自分が何者か分からなくなるモヤモヤ。これも情緒的イメージであり、それが主体性を捧げる自己の探求のはじまりになるのであろう。

人は体験を喜びとして生きている。
主体性に基づいて体験と感動、情緒的イメージの結びつきが喜びを生み出す。
今に関わり未来に少しでも触れたいと衝動的に願っている、それが創造性であり生命力。未来を欲するあがきに喜びが存在するのかも。

あなたは知らない。それは知るべき。それを私は教える。そしてちゃんと知ったか検証する。
この一つの知による権力構造がどのようなうごめきを生み出すのか。
それは美しくも心地よいうごめきとなり得るのか?排他的、圧力的にならないのか?

「日常」という単位の解体、新たなパラダイムの表現には、日常の高速反復運動と停止、そしてゆっくりな垂直運動によって芸術領域に持っていくことで始まる。そこからくる情緒的イメージの紐付けによる日常への思考は新たな価値観を生み出すだろう。


振り返り

拡張について向き合う。
体験と観察による感情に興味関心が紐付き、そこに知識が引っ付いていく。こうやって構築的な拡張が描かれる。
そしてそれを手放す。その時にまた拡張し、その反復はどこかで停止したり垂直運動が始まり、それが爆発をもたらす。
それが極上の拡張体験。
ここに主体性を捧げ生きてみる。拡張体質の実験。

これが今年のテーマ。


もやもや



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