見出し画像

今週の出来事(1/17~1/23)

Random thoughts and head trip [Week. 98]

前回はコチラ→


今週の出来事を書いていきます。


1月17日(月曜)

乗り越える


1月18日(火曜)

バランスを崩しながらも


1月19日(水曜)

少しずつ取り戻す


1月20日(木曜)

抑圧と排他の枠について考える。
また、感謝と抑圧の関係性についても。

ここのバランスが美しくも心地よいうごめきのポイントになるのだろう。


1月21日(金曜)

感謝と抑圧と排他、それに対する迎合。
全ては循環なのだろうが、既存の循環にただ従って生きるのは生きてる感じがしない。とはいえ、そこに抗うのも循環。
未来への足掻きが生命力、生きることであるのなら、循環の流れを変える足掻きを行いたい。
それが自分のゲーム。


1月22日(土曜)

何も起きていないというのは、危機を脱していたとも言えるのかもしれない。そこでの定常的な出来事は、中にいる間は何も起きていないと感じる。
それが抑圧と排他をより強くし、大きい反動をうむ。
単線的な世界観では語り得ない何かが表出しだしたとき、世界観は変化を余儀なくされる。そしてまた新たなパラダイムでちょうど良いあんばいを構築しだす。
これは構築と拡張の循環モデルであり、反復しながら変化し続けている。
そしてここの循環の間にはそれなりの苦しみが伴う。争いや格差、アイデンティティの喪失、環境問題、単線的に行きすぎた何かが歪みを生み、苦しみを伴いながら崩壊、拡張し、また循環する。
生きるエネルギーの一つに未来への足掻きというのがある。
多くの場合、自らのうごめきの中でちょうど良いあんばいを求めて構築し、それを安住の地としてずっと続く幸福を描く。みたいなのを求めて足掻くのが未来への足掻きと言えるのかも知れないが、その構築したものが持続し、時が経ち視点が移り変わっていくことでその幸福は何も起きていないものと同じになる。また、同じうごめきとして留まり続けることで、次第に迎合性が強まり、抑圧と排他の存在感が強まっていく。これに対して幸福を求めて足掻き、それが大きな波を生み出し、留まりきれなくなったところで一気に崩壊する。そして新たなうごめきが構築されていく。
このように循環は避けられないのだとしたら、安住の地に留まり続けることを夢見た行いが、循環の苦しみを強化しているようにも見える。僕はこの拡張と構築の循環モデルに存在する、苦しみを伴う変化をなめらかにできないか、と考えている。それが僕の未来への足掻きであり、自分のゲームである。
なめらかに手放し拡張し、美しくも心地よいうごめきを構築する。そしてまたなめらかに手放していく。
前の世代から与えられた恩恵は、感謝でもあり呪いでもある。
なめらかに手放すには視点が変化すると同時ぐらいがちょうど良いのかもしれない。
そして、なめらかな循環モデルが認識された時、そのモデル自体も留めるのではなく、なめらかに手放す。それは、その循環モデルは世界に一つではなく、無数に存在し、なおかつ多層的に重なりあっていると認識することである。世界を包括する一つの循環モデルは存在せず、無数に存在する循環モデルが重なり合っているのだ。その集合点が自己個人である。循環モデルの媒介者である自己個人は、この多層的なうごめきをなめらかに泳ぎ変化をもたらす。安住の地は自己のうごめきの中に存在するのかもしれない。そして視点が変わると同時に手放していくのだ。なめらかに。


1月23日(日曜)

いかになめらかに手放すか?
この問いに対する答えは、異なる文脈をフィクションやエッセイの引用で紹介し、その引用をもとに自分ではない視点で語ってみるということだ。それはつまり体験してみるということに近しい気がする。
今ある構築した価値観をいかに手放すか?そのためには、その手放す方向性がないとなかなか素直に手放しづらい。手放すハードルを避けるには、その手放す方向性を示す異なる価値観がいるのだ。しかし、自己の価値観とは異なる価値観を示されたとき、大抵の場合、ネガティブな気持ちになる。それは自己の価値観をある種否定されるような感覚、自分が進んでる動きを邪魔されているような感覚を得るからだろう。
このネガティブを緩和する力がフィクションにはあるように思う。フィクションの引用はそのためにある。異なる価値観のフィクション(ノンフィクションエッセイとかでもいいが)を提示し、そのフィクションにある視点を想像して語ってみる。その時に何か開けた感覚があればそれはなめらかに手放すことに近づくのではないか?
また、異なる価値観が実際に行動できるものであるなら、実際に行動して体験観察してみるということもできる。その体験観察により、喜びを得られる体験があればそれもまたなめらかに手放すことに近づく。
結果的に手放せるかどうかはまたその後次第だが、そこに存在するネガティブを緩和しなめらかにする要素を見つけた気がする。
また、自らの価値観もフィクションとして所有し、近い価値観の人同士で共有所有し、共通言語として育むということもできるであろう。それは価値観のモジュール化を実現し、そしていずれ手放すときによりなめらかさが増すことになりそうな気がする。
美しくも心地よいうごめきは、出入りのハードルが低い流動性と異なることを喜び合う文化によって育まれるが、その中に共有するフィクションがあり、そのフィクションを所有している感覚は、いずれ手放すときのハードルを低くする。また新たなフィクションに思いを馳せて構築していけばいいのだ。そして、その異なる価値観は常にフィクションとして認知可能な状態で無数に存在している。この認知可能な状態が自らがさまざまなレイヤーの重なりで生きる多層世界を実感させてくれる。今までのテクノロジーは大きい一に統一されるよう動いていたが、それが分散化へと働く時代がきているのかもしれない。


振り返り

コンテクストアートなる分野を開拓していこうと思った。それが今やっている活動に総じて通じている概念な気がする。まずはPodcastで表現していこう。
また、なめらかに手放す。異なる価値観を体験し喜びを得るというのは、アップサイクルアートなのだろう。ゴミに自ら手を加えてアートを生み出し喜びを得る体験は、ゴミを出す文化をなめらかに手放すことにつながる。そして、ゴミを自ら手を加えて循環させる文化が育まれるかもしれない。
その時に企業がする役割は、いかに人々が自らゴミに手を加えられるような環境を作るか、というところになっていき、それは今のweb2.5的な、個人の活動を、主導権は個人のまま下支えするビジネスモデルを生み出していくことになるのだろう。
という妄想。



もやもや



今週のPodcast。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?