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今週の出来事(5/30~6/5)

Random thoughts and head trip [Week. 117]

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今週の出来事を書いていきます。


5月30日(月曜)

起きれないなー


5月31日(火曜)

ようやく流れを取り戻してきている感じがある。


6月1日(水曜)

よくやった


6月2日(木曜)

早くて熱烈


6月3日(金曜)

大きく変わった世界

6月4日(土曜)

同時であることの難しさ。理想は二項対立の両極が同時に存在し、同時にそうでもあるし、同時にそうでもない、という状態。しかし、それは他者とのうごめきの中で生きていくには非常に難しい。
妥協案としての現実的な案としての循環。
同時ではなくていいのだ。
不安と安心があるとしたら、安心が絶対的な良きものとして不安を排除しようとする行為。これが差別であり、二項対立をうむ。安心しかない状態を理想とする。不安がない世界では安心はあるのだろうか?
不安でもあるし安心でもある状態。また、どちらでもない状態。中庸。不安があるから安心があるし、逆も然り。それを身体的に理解し、常に中庸であることを理想とする。
安心がいい。中庸がいい。しかし、それはそれぞれに難しい。人の状態はうごめき、変化するので、その時々の余裕が必要となる。
しかし、常にそうである必要はあるのか?同時である必要はあるのか?
時空的な範囲で同時であるべきなのか?それがいいのか?
循環でいい、という考え方もある。
安心と不安がどちらかの極にいくことも、同時であることも難しければ、循環であればいいのではないか?
安心と不安を循環すること。重要なのは、どちらかを排除しないことであるし、両方であることも両方でないことも排除しないこと。ただ、同時であるのはうごめきの状況によって難しい。安心と不安の出口と入口を繋ぎ、循環でいいんじゃないのか。安心である時に不安を排除せず、不安が入る余地を置く。逆もしかり。
そして、循環がいい、という極にいかず、循環ではないのもそれはそれでいい、という姿勢。受け入れられなければうまくすれ違えばいいのだ。
ただ、それでもうごめきは影響し合うし、またどこかで循環するのだ。

ただ、そう考えると、循環が何かの免罪符のようにもなってくる。
この思想自体も、いずれ通用しなくなるし、今もどこかでは通用しない。
時代と場所のうごめきによって通用する思考は変化する。
余地があること。循環という妥協案について。

6月5日(日曜)

妥協案としての循環。極限の正であるのも、無であるのも社会的なうごめきに生きる上では難しい。どちらでもあるしどちらでもない無であり続けるには最低限の余裕がいるし、余裕を必要としない極限の正にはそもそも向かいたくない。
最低限の余裕とは、生きている状況(時と場所)においての、時間や生命、金、人間関係などの余裕である。
多種のうごめきである以上、この余裕は状況によってあったりなかったりする。
では、どうするのか。最低限必要な余裕のラインを下げるか、余裕がない状況を排除するか、などがある。前者はそれなりの思考と訓練がいるかもしれない。余裕がない状況を排除するは、要は極限の正に向かう行為であり、また得手して余裕がない状況を排除するために余裕がない状況になる、というパラドックスを生む。極限の正であり続けるには排除が伴う。
では、無であるための長くて深い思考をやり続けるのかというと、多種のうごめきがそうあるのを難しくする。
それでは、極である時もあるし、無である時もある。時と場所によってあり方は全然違うが、結果的に循環していればいいんじゃないか、と思う。
極と無の出口と入口をつなげるのである。出口と入口がつながると循環となる。出口と入口の瞬間というのは、自他未分、純粋経験のような快楽性が存在する。その瞬間に浸る、その瞬間が続いて欲しいと願うような快楽性。そして、瞬間は過ぎ去る。しかし、いずれまた出口と入口はつながる。それを感じていることが循環を感じていることであり、心地よさというものになる。この循環は異なるうごめきが流れ込む余地のある循環なのだ。なので、また出口と入口がつながることをイメージできる。妥協案としての循環。
これは横断可能性というものなのかもしれない。循環の中心ははじめは虚空である。何もない。しかし、循環、異なる個が自他身分になりながらも共に回る過程で、その虚空は本質へと変異する。そこからは本質が異物と共にうごめきながら、循環していくのだ。その本質に横断可能性があるかどうかが重要である。迎合や取り込むような固さではなく、深くて柔らかいうごめき。それは共通の身体的経験と概念によってやり取りされるノンバイナリーな表現と、それを記述的に示唆する言語によって映し出されるうごめき。記述するものも制作するものもそれに浸るものも循環のなかに存在する。主体と客体が曖昧になりながらもメタ認知するような。そんな循環。
映し出す表現は形であり、構造である。その表現もまた循環するのだ。
時代によっては循環を断ち切ることや、極へ向かうことがフィットする時代もあった。しかし、現在においては妥協案的な循環がフィットするように思う。それは今の物質的な状況、意識の範囲によってフィットする思考は変わる。我々の意識の範囲は地球になってきているのかもしれない。それは全体ではない。一枚絵でしかないのだが、確実に拡張してきている。そんな状況においての思考なのだ。これが時と場所が変わるとまたフィットする思考は変わってくる。
それを理解しながらも緩やかな循環をイメージし、快楽と心地よさ、美しさを享受しながらうごめいておく、というのいいな。


振り返り

早くて強い思考においては、特性を活かし不足は集合体で補うがよし。
深くて長い思考においては、ぐちゃぐちゃのままとろとろするがよし。



【今週のPodcast】

ようやく配信復活です。
今回はジャンプ+に掲載されている読切漫画「キスしたい男」をベースに話してます。


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