字が下手であることを恥じながら生きるのが一番いやだ


字が下手だ。


 「字が下手でも、字のサイズや高さをそろえて丁寧に書けば大丈夫だよ」と言ってくれる人もいるが、私は限られたサイズ、限られた罫線内でも軽々とその領域を超えていく。
 少し速度を落とし丁寧に書いていても、だんだん私の意識が、手と自分を分離して捉え、「何ちんたら書いてやがる」と手に怒り出す。怒りのあまり手が僅かに震え始める。するとどうなるかというと、筆記速度が一定でなくなるうえに直線が引けなくなる。文章も前半は妙にきれいなのに途中で蛆虫を並べたようになる。
 これらを踏まえて、私はやむなく韋駄天のごとく蛆虫を並べているのであるが、一つ問題がある。気持ちの面で自分のブサイクな字を全く受け入れられていないのだ。つまり、字が汚いくせに、その字の汚さを受け入れる度量がないのである。これは日常生活にもそこそこ支障が出る。
 手帳を開けば地獄絵図、職場で電話応対用に使っているメモはすべて試し書きのように見える。書類や説明書をきれいに分類したのに、ラベルの文字がきれいじゃないので全く美しくない。
 「じゃあペン習字なり独学なり、何らかの努力をすればいいじゃないか」という声もあろう。正論である。でも私は努力しない。面倒くさいからだ。そんなことをしている時間があったらブックオフに行きたい。もともとがダメ人間なのもあるが、「綺麗になったところで旨味が薄い」というのもある。

 正直なところ、私は字が汚いということは実生活上さしてデメリットではないと考えている。現代において、文字が必要な場合のほとんどはデジタル入力で対応できる。また、手書きが必要なケースも下記のように考えられると思う。
1.そういうマナーだから→書くことがたいてい決まっている。トレース元が簡単に見つかるし、形骸化したマナーであれば「手書き風フォント」でごまかせる。
2.手書きのぬくもりを伝えたいから→この場合多少字が下手でも「不器用な人柄が伝わる」と好感につながるケースがある。手書きという時点でプラスなのだ。
3.デジタルデバイスが使えない非常時→見栄えを気にしている場合ではない。
4.手帳、メモ、講義ノートなど、さっと書いて手軽に読み返したい→自分しか見ないので、自分さえよければ見栄えは関係ない。

 つまり、現代の文化水準(文字のやり取りはデジタルが主流、手書きは非日常または個人的なもの)が持続する限りにおいて、字の美醜というのは最低限のライン――読むべき人が読めるか――を超えた場合、ほとんど自分の気の持ちようの問題になる。私のポリシーとして「自分の気の持ちようだけでなんとかなるものにコストをかけたくない」ということがある。つまり、この文章を要約するとこういうことだ。

あ~~~~~~~時間も金もかけず自分大好き人間になりてえな~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

元気いっぱい頑張るぞ!

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