ヒカリ文集

『ヒカリ文集』松浦理英子 講談社
  ない、ことでさらその存在が際立ってくるものが、ある。不在の存在。
  舞台セットも何もない空間に人物が現れ、我は王なり、と言えばそれは紛れもない王様である。演じる側見る側の間に交わされる暗黙の了解、想像力の契約だ。
  劇作家兼演出家の破月悠高が未完の戯曲を残し30代半ばにして横死した。かつて悠高が主催していた劇団の団員達が久しぶりに集まりパーティを開く様子が遺作には描かれていた。悠高と実在の団員がモデルの5人。話はいつしか、パーティに来ていない元団員の女優ヒカリの話に終始していく。パーティに1人実在しない人物が登場する。悠高の親戚の大学生という役どころだ。彼は皆の話を聞く限り、ヒカリは〈笑顔が素敵で人を依存させるほど優しい〉〈人に愛されるのが好きで男とも女とも付きあう〉〈どこか弱さがあって暗い〉と思うが〈イメージできない〉と発言する。その発言を受けてヒカリのイメージを順番に全員が即興の1人芝居を演じることになり、ここで戯曲は途切れている。
  悠高の遺作を引き継いだ5人の元劇団員達が、それぞれのヒカリへの思いを文章に書き綴り、戯曲を巻頭に纏めたものが『ヒカリ文集』と名付けられた。とくに読者を意識しない仲間内でのささやかな文集だった。
  劇団の看板役者でホストのようと言われる鷹野裕、野生的な印象のレズビアンを公言する飛方雪美、スキンシップで他人に近寄りがちな小滝朝奈、劇団の母の様な存在で、のちに悠高の妻となる真岡久代、皆より後輩でのんびりとした秋谷優也。
  5人の文章を読んでいくうちに、次第に明らかになるヒカリの正体とは。とはならない。戯曲に登場した悠高の親戚の大学生のようにイメージは掴めない。しかし強烈な存在感が残る。悠高の姉がヒカリの印象をこう言いあらわした。〈真っ暗闇でひらひらと舌だけがそよいでいるような無気味さ〉。
 人当たりの良い、笑顔が素敵なと皆に言わせるヒカリなのだが、この小説にある褒め言葉としての薄気味悪さは何処から来るのだろう。ヒカリに振られた、鷹野と雪美が〈轢き殺さない?〉〈いいね〉と冗談を交わすシーン、3人で出かけヒカリが去った後に〈そもそも何で来たのあの人は〉という台詞。実際には口にされなかったであろう言葉。それがあたかも口にされたように書かれているからだ。口にせずとも無意識にそう思っていたからだ。と思わせるからだ。
  劇団が小説の舞台に選ばれた意味がここにある気がする。ひとつひとつの言葉を、何通りの意味にでも解釈して操る人たち。文章にも現れないはずはない。
次々と劇団員たちと付き合っては別れるヒカリが、男を破滅させる女マノンレスコー役を当てられた時に言った〈おもちゃにされてるんだとしても、喜んでおもちゃになるし〉、もしヒカリがこの文集を読むことがあったなら、またこの台詞を口にするだろうか。
 作者との想像力の契約が試される思いがした。
(せりふの時代)
  
  

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